第26話
ベルクマン侯爵邸の冬は、寒かった。
例年なら大広間に煌々と灯りを入れ、客を迎え入れる時季だった。けれど今年の冬は、屋敷のほとんどが閉じられ、灯りが入っているのは、侯爵夫人の寝室と、ヴィルフリートの自室だけだった。
夫人の意識は、二日前にようやく戻った。だが、起き上がることはできなかった。
ヴィルフリートは、母を見舞うために、寝台を抜け出していた。自分の体調も、決して良いとはいえない。けれど母の枕元に座ることだけは、毎日欠かしたくなかった。
その日も、彼は寝衣に上着を羽織り、廊下を歩いていた。母の寝室まで、あと数歩。
その数歩を、踏み切れなかった。
視界が、ふいに大きく揺れた。
壁が斜めに傾き、足元の絨毯の柄が二重に見え、耳の奥で水音のような響きが鳴った。手すりに掴まろうとしたが、手は宙を空切り、ヴィルフリートは廊下にどっと膝をついた。
「ヴィル坊ちゃま!」
駆け寄った侍女の声が、遠くで聞こえた。屈強な男が抱え起こし、寝室へ運び戻されたが、ヴィルフリートはその間ずっと、自分の体の中の何かが、底へ底へと落ちていく感覚に苛まれていた。
寝かせられた寝台の上で、彼は天井を見つめた。
母も、自分も、リリィの「光魔法」を、誰よりも近くで受け続けてきた。それは、神の御力をいちばん多く分け与えていただいたからだと、信じてきた。けれど今、母は意識を失い、自分は廊下で倒れた。神の御力を、最も多く受けた者が、最も病んでいる――この事実は、何を意味するのか。
頭の隅で、追放された娘の声が、蘇った。
「王都には、確かに毒が満ちております」
あの夜会で、深く一礼して告げた、静かな声だった。
翌朝、王城の貴賓室では、王太子が膝を抱えていた。
ヴィルフリート卿が廊下で倒れた、との報せが届いた直後だった。社交界の中核を担う家の者が、また一人。王太子は震える指で書状を握り、もう一方の手で頭を押さえた。
扉が開き、リリィが飛び込んできた。
「殿下、ヴィルフリート様の御容態を、お聞きいたしました。私が、すぐに参ります」
「リリィ……お前の魔力は、もう」
「いいえ、参ります。ご親しいヴィルフリート様を、見過ごせません」
リリィは、王太子に、これまでになく強い目で告げた。芝居がかった涙はなかった。代わりに、追い詰められた者の必死さがあった。彼女自身も、もう、どこまでが計画でどこまでが本気か、分からなくなりかけていた。
その様子を、貴賓室の隅から、王太子の侍従長が、長く見ていた。
老臣は、その夜、王の私室を訪ねた。
王の前で、侍従長は深く頭を下げた。
「陛下。リリィ嬢のことにつき、お耳に入れたき儀がございます」
王は、暖炉の前の椅子で、ぶどう酒を傾けていた。最近は咳が出て眠れぬ日が続いていた。
「申せ」
「リリィ嬢の『治癒』を最も多く受けた者から順に、倒れております。これは偶然とは、申せませぬ。臣にて密かに過去をお調べになるお許しを、賜りたく」
王は、しばし黙していた。
リリィは、王太子が選んだ娘だった。王太子の名誉と、王家の威光が、リリィに紐付いている。安易に調査を命じれば、王家自体に傷がつく。
けれど、貴族たちが次々と倒れている事実は、もう無視できなかった。
「許す」
王は、短く告げた。
「ただし、極秘で行え。万一のときは、一族郎党、お前の独断にしてもらう」
「お命令、ありがたく承ります」
侍従長は、深く礼をした。
翌朝から、王城の影で、密やかな調査が始まった。リリィの「グレイ男爵家養女」以前の経歴を、辿る作業――追えど追えど、その先には、何もなかった。空白だった。




