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聖女の奇跡? それは毒ですが?  作者: 小林翼


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第25話

 数日後の夜、城からの使いが店を訪ねてきた。


 ガルシアの執務室に、すぐ来てほしいという伝言だった。アネットは前掛けを外し、上着を羽織って、城へと向かった。秋の夜風は冷たく、月は欠けて細い。城の長い廊下を、足音が一定の調子で響いていく。


 執務室の扉を、控えめに叩いた。


「入れ」


 扉を開けると、ガルシアは執務机を離れ、暖炉の傍らに置かれた長椅子に座っていた。卓には、ぶどう酒の瓶と、二つの杯。アネットを見ると、彼は向かいの椅子を、軽く目で示した。


「座ってくれ。今日は、薬師としてではない、用件だ」


 アネットは、静かに腰を下ろした。



「お前が、何をされてきたのか」


 ガルシアは、まっすぐにアネットを見た。


「俺は、知っておくべきだと思う。ヴィルマール卿の書状にも、お前の最初の説明にも、要点は記してあった。だが、お前自身の言葉で、お前の側から見えていた光景を、俺は知っておきたい」


 アネットは、しばらく杯の縁を指でなぞっていた。


 ガルシアは、急かさなかった。暖炉の薪が、小さく爆ぜた。


 話す覚悟は、できていた。今日この時のために、自分の中で言葉を整えてきた気がした。アネットは深く息を吸い、口を開いた。



 母の話から、始めた。


 十年前、母は王家の侍医を務めていた。流行病で亡くなったとされていたが、母は最後の数日、ある「貴族令嬢」の不審な行動を、王家に報告していた途中で倒れたこと。発症から死までが、あまりに早かったこと。家族にも、看取りの時間を与えられなかったこと。


 婚約の話。月一の茶会で繰り返された「華がない」の言葉。


 リリィの登場。茶会で目撃した「奇跡」の異様さ。傷の塞がり方、兵士の陶酔した目、揮発した光。母の手記の、幻覚毒の記述。


 父の咳。秘密の調合。クラリッサに渡した薬。


 夜会の断罪。仕組まれた証拠。涙ながらに「許す」と告げたリリィの、瞬時に灯った冷たい光。婚約破棄、家督継承権剥奪、王都追放。「私は何も盛っておりませんが、王都には毒が満ちている」と告げて去った夜。


 父との別れ。馬車の旅。野盗。辺境への到着。


 ガルシアは、一度も口を挟まなかった。ぶどう酒を一口含み、暖炉の火を見つめ、アネットの言葉に耳を傾けていた。



 話し終えたとき、暖炉の薪が、半分以上崩れていた。


 アネットは、わずかに俯いた。話しているうちに、自分でも意外なほど、涙は出なかった。けれど話し終えた今、胸の奥が空洞になったような、奇妙な軽さがあった。


 長い沈黙の後、ガルシアは杯を置いた。


「お前は」


 声は、低く、慎重だった。


「何も、悪くない」


 短い言葉だった。けれどそれを聞いた瞬間、アネットの目に、いっぺんに涙が滲んだ。


 追放されてから、誰もこの言葉を、自分に向けて言ってはくれなかった。父も「すまない」と泣いた。クラリッサも「ごめんなさい」と書いてきた。けれど誰も、「お前は何も悪くない」と、断言してはくれなかった。


「お前は何も悪くない。お前は最初から、最後まで、何ひとつ、間違ってはいない」


 ガルシアは、もう一度繰り返した。


「お前の母上の知識が、いま辺境を救っている。お前の調合が、いま街の子供を救っている。お前の予言は、いま中央で、正しさを証明し始めている。それは、お前の母上が遺したものを、お前が誰の助けも借りずに、ここまで運んできた結果だ」


「ガルシア様……」


 声が、震えた。涙は、もう止められなかった。


 アネットは両手で顔を覆い、肩を震わせた。子供のように泣いた。一年と少しの間、堪えてきた何もかもが、いっぺんに、手の中から零れた。


 ガルシアは、何もしなかった。


 立ち上がりも、声もかけず、ただ向かいに座って、暖炉の火を見つめていた。アネットが泣き止むまで、ずっと。


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