第22話
その夜会は、王都の社交界の華と謳われていた。
ヴィッツェル公爵邸で開かれた、秋の大舞踏会。今年は出席者が少ないと噂されていたが、それでも王都中の名家が顔を揃えた。シャンデリアが百を超す蝋燭の光を投げかけ、楽団は古い舞曲を奏でていた。
ベルクマン侯爵夫人――ヴィルフリートの母も、薄化粧で頬の青さを隠し、扇の影に咳を隠して、夜会に出席した。半月寝込んだ後、ようやく起き上がれた身を、それでも社交の場に運んだのは、彼女が侯爵家の女主人であり、欠席は家格に関わると信じていたからだった。
夫人がワルツの輪に加わった、その三歩目だった。
彼女の手が、相手の肩から滑り落ちた。膝が折れ、絹の靴が床を擦り、深紅のドレスが、シャンデリアの真下に崩れ落ちた。
楽団が一拍遅れて、奏楽を止めた。広間が、しん、と静まり返った。それから、誰かが小さく息を呑む音が、波紋のように広がっていった。
悲鳴が上がった。
「夫人!」
駆け寄った相手の紳士が、懐から扇を引き抜いて煽ぐ。集まった人々の中から、王城付きの医師が呼ばれ、夫人の脈を取り、瞳孔を確かめた。手足を擦り、塩を嗅がせ、考えうるすべての処置を試みた。
夫人は意識を取り戻さなかった。
「お、おかしい。脈はある、心臓も動いている、なのに目を覚まさない……」
医師の声が、上ずった。それは、長く王家に仕えてきた名医の声には、聞こえなかった。
ヴィッツェル公爵が、鋭く侍従に命じた。
「リリィ嬢を呼んで参れ! 急ぎなされ!」
半時もせずに、リリィが息を切らせて駆けつけた。白いドレスのまま、恭しく夫人の傍らに膝をつき、両手をかざす。広間中の視線が、固唾を飲んで彼女に集まった。
「光よ、この方の御命を、どうか――」
祈祷の声が、震えていた。
リリィの手から、いつもの薄い金色の輝きが、立ち上がる。
しかし、夫人の顔色は、変わらなかった。
一刻が経った。リリィは三度、四度と祈った。汗が額を伝い、呼吸が荒くなる。
夫人は、目を覚まさなかった。
「殿下……私の魔力では、もう……」
リリィは、王太子の足元に縋った。
「神の御力が、私から離れていきます。私が至らぬのです、私が」
涙が床に滴り、リリィは肩を震わせて泣き伏した。集まった者たちは、聖女の涙にたじろぎ、けれど、夫人の容態が変わらぬ事実からも、目を逸らせなかった。
ざわめきが、小さく、しかし確かに、広間の隅から起こりはじめた。
「ヴォルクハイムの薬師の話、聞いておられるか」
誰かが、押し殺した声で囁いた。
「中央の病に効くと、もっぱらの噂だ。原因不明の症状を、和らげる薬を作ると」
「魔の森の毒矢を解毒したそうだ。腐死獣の毒すらも」
「中央の医師にできないことを、辺境の女が……」
「あの娘は、たしかモンフォール家の……いや、まさかな」
誰かが言いかけ、すぐに口を閉じた。一年前、断罪された娘の名を、今、この場で口にすることは、恐ろしくもあり、痛々しくもあった。
囁きは囁きのまま広がり、しかし誰一人、声を大きくはしなかった。リリィを否定することは、王太子を否定することと同義だった。今夜の場で、それを口にする勇気のある者は、まだいない。
ベルクマン侯爵夫人は、担架で侯爵邸に運ばれていった。
屋敷に戻ったヴィルフリートは、母の容態を聞いて、寝台で吐いた。リリィへの信頼が崩れていく音と、自分自身の体の異変が、同時に押し寄せていた。
彼の枕元に届いた、見舞いの書状の中に、辺境の薬師の話を綴ったものが、一通だけ混ざっていた。
ヴィルフリートはそれを、しばらく握りしめていた。
握りしめたまま、震える手で、燭台の火に近づけ――近づけきれずに、寝台の脇に取り落とした。




