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聖女の奇跡? それは毒ですが?  作者: 小林翼


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第20話

 夏の終わり、城からの使いが、店の扉を叩いた。


 使者は、丁重な物腰でアネットに告げた。明後日の午後、辺境伯閣下が直々に来訪なさる、ご自宅でお迎えする支度を整えるよう、と。アネットはなんとなく、何かが動き始めるのを感じていた。


 ガルシアは、近頃、店に頻繁に立ち寄るようになっていた。


 怪我の経過を診せに来るという建前は、もう取り繕われなくなっていた。彼は薬瓶を眺め、薬研を挽くアネットの手元を見、子供たちが帰ったあとの庭を眺め、たまに一言、二言を交わして帰る。それだけのために、辺境伯が公用馬を駆って下りてきていた。


 アネットは静かに、その時間を受け取っていた。受け取りながら、まだ自分の中で、何かに名前をつけることは、避けていた。



 約束の日、ガルシアは午後の早い刻限に来た。


 今日は鎧ではなく、簡素な黒い上衣だった。城に詰める身なりとは違い、わずかに肩の力の抜けた装いに、アネットは少し気が緩むのを感じた。長椅子に向かい合って茶を出すと、ガルシアは茶を一口飲み、しばし庭を見て、それから、ようやく口を開いた。


「アネット」


 名を呼ばれることに、もう驚かなくなっていた。


「お前を、ヴォルクハイム辺境伯領の公式薬師として、城に登録したい」


 アネットは、湯呑みを置いた。


「公式薬師、と」


「正式な称号と、報酬と、領主直属の保護を保証する。城の医療所にも、月の幾日か、詰めてほしい。お前の店はそのまま続けてよい。むしろ、街の薬師として、城にも詰める者として、両方を続けることに意義がある」


「……そこまで、していただいて、よろしいのですか」


 声が、わずかに震えた。


 称号、ではない。問うていたのは、もっと根本的なことだった。アネットは、湯呑みを両手で包み、視線を落とした。



「私の素性を、ご存じの上での、ご提案でしょうか」


「ご存じだ」


 ガルシアは即答した。


「モンフォール伯爵令嬢、家督継承権剥奪、王都追放、毒物混入の冤罪。父上のヴィルマール卿の書状には、すべて記してあった。お前自身からも、最初の日に聞いた」


「では、王家から、お問い合わせがあれば」


「あれば、断る」


 言葉に、躊躇の影もなかった。ガルシアは茶碗を卓に置き、アネットの目を、まっすぐに見据えた。


「お前が誰であろうと、俺の領地で薬を作る限り、俺はお前を守る。中央が文句を言ってくれば、俺が話す。お前は薬を作っていればいい」


 雷でも落ちたかのように、アネットは身じろぎひとつできなかった。


 守る、と彼は言った。中央の権威にも怯まず、王家の名を出されても引かず、辺境伯ガルシア・ヴォルクの名で、自分を守ると。


 追放されてから、何度、頭を下げて生きてきただろう。誰かに守られるという言葉を、もう自分は受け取ってはいけないと、心のどこかで諦めていた。だからこそ――誰かに、こんな風に、まっすぐに告げられるとは思っていなかった。



 目に、熱いものが滲んだ。


 アネットは慌てて目蓋を伏せた。けれど一筋だけ、頬を伝った雫を、ガルシアの赤い瞳は、見逃さなかった。彼は何も言わずに、卓の上に、布巾を一枚、そっと置いた。


「……ありがとう、ございます」


 声が、湿っていた。アネットは布巾を借りて、目元を押さえた。


「お引き受けいたします」


 ガルシアは、深く頷いた。


「これで、お前は、俺の領地の人間だ。堂々としていろ」


「はい」


 短く答えながら、アネットは胸の奥が熱くなるのを感じた。中央を追い出された娘ではない。辺境伯領の公式薬師。それが今日から、自分の身分だった。


 窓の外で、夏の終わりの蝉が、最後の声を上げていた。


 アネットは布巾を畳み、ガルシアに微笑んでみせた。これまでで、いちばん自然な笑顔だった、と自分でも思った。


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