第19話
商人の馬車が去って、十日ほど経った夕刻だった。
その日は雨が降っていた。閉店の支度を始めようとしたアネットが、最後の薬草を棚に戻していると、扉の鈴が、控えめに鳴った。
「失礼いたします。お薬を、求めに参りました」
深い灰色のローブに、黒のベールを下ろした女人だった。背の高い、姿勢の整った中年と覚しき貴婦人。声音はゆっくりと洗練されていて、街の女のものではないとすぐに分かった。アネットは無言で長椅子を勧めた。
ベールの女は腰かけるとも立つとも判じがたい姿勢で、卓の向かいに静かに座った。
「中央の、ある方の使いでまいりました。お名は申せません。けれどそのお嬢様が、長く重い病を患っていらして」
「症状をお聞かせ願えますか」
「倦怠感。手足のしびれ。夜の浅い咳。教会の治癒師が手を尽くしても、効きが薄いのだと申しております」
アネットは、湯沸かしの火を止めた。
またこの症状か。商人が来た日から、もう何度目だろう。聞くたびに、頭の中の確信が一段ずつ深まっていく。リリィの「光魔法」を直接受けた者と、その近くで揮発した毒を吸い込み続けた者。両方が、いま、王都で同時に倒れ始めている。
「お辛いでしょうね、そのお嬢様も」
「ええ。ご家族も、ずっと心を痛めていらっしゃいます」
アネットは、しばらく女の手元を見ていた。
ベールの隙間から覗く指は、貴族の指だった。黒い喪手套が、わずかに皺を寄せている。中央で、それなりの地位にある婦人が、なぜ自ら――。
考えるのを途中で止めた。詮索は、客に対する礼ではない。
アネットは奥の棚から、いくつかの薬瓶を取り出した。父に渡したものよりも、いくらか強い処方の解毒薬だった。半年前から、症状が進んだ場合に備えて、調合の改良を続けていた。それを丁寧に包み、紙の上に小さな文字で服み方を書く。
「朝晩、食事の前に、少量ずつ。十日で一度、効きを見てください」
包みを差し出しながら、アネットは続けた。
「ですが、これだけは、お伝えください」
女が、ベール越しに顔を上げた気配が伝わった。
「この薬は、症状を和らげるものです。根を、絶てる薬ではございません。原因が体に入り続ける限り、薬を飲み続けねばなりません。お嬢様のおられる場所、口にされるもの、近づく人々を、よくお調べになるよう」
「……原因が、体に入り続ける、と仰いますか」
「ええ」
アネットは、それ以上は語らなかった。
まだ、語る相手が誰なのかも分からない。けれど中央の貴婦人を介して、誰かに、言葉が届くかもしれない。届く相手がいるなら、その人が考え始めればいい。
女は、薬の包みを、両手でそっと押し戴いた。
代金を聞かれたので、相場の値を伝えた。女は黙って、その三倍の金貨を卓に並べた。アネットが押し戻そうとすると、ベール越しに小さな笑い声が聞こえた。
「あなたのお薬は、命の対価ですもの。これでも、まだ足りないくらい」
声に、ふと、別の温度が混ざった気がした。
久しく聞かなかった、誰かの声音に、似ている――気のせいかもしれなかった。アネットがその違和に意識を留める前に、女は立ち上がり、深く礼をして、雨の中を出ていった。
扉が閉まる。アネットは長椅子の脇に座り込み、卓の上の金貨を、しばし見つめた。
女が乗り込んだ馬車の中。
ベールを取った貴婦人が、深く息をつき、薬の包みをそっと胸に抱いた。馬車の窓越しに、雨に濡れた看板――《薬草と治療 アネット》の文字を、長く見つめている。
「クラリッサ様、お送りいたしますね」
御者の控えめな声に、その婦人――王太子妃候補クラリッサ・グラントの侍女頭、マーサが、静かに頷いた。
馬車は、雨の街道を、王都のほうへと走り出した。




