第18話
夏の盛り、見慣れぬ馬車が、店の前に停まった。
黒塗りの上等な車体には、王都の薬種組合の紋が刻まれている。降り立ったのは、上品な仕立ての服に身を包んだ中年の男だった。男は店内を一瞥し、棚の薬瓶と乾燥薬草の品揃えに、感心したような顔を見せた。
「ご丁寧に、よく整えられた店だ。あなたが、噂の薬師殿でいらっしゃるね」
慇懃な口調だった。アネットは前掛けの土を払い、軽く礼を返した。中央訛りの抑揚を耳が拾ったとき、胸の奥で、小さく警鐘が鳴った。
「商談に伺いました。私はヴェルニ商会のラトナ。中央の高位貴族にも顧客を持つ、薬種商でございます」
男は名乗り、卓の上に革張りの台帳を置いた。
「単刀直入に申し上げます。あなたの解毒薬を、中央で扱わせていただきたい。買い取り値は、相場の三倍。年契約で、相応の前金もご用意いたします」
アネットの指が、机の縁で止まった。
「中央で、私の薬を求める方が、いらっしゃるのですか」
「ええ。原因不明の病が、中央の貴族の間で広がっておりまして」
男の顔に、わずかに同情めいた表情が浮かんだ。それが本物の同情なのか、商売の彩りなのか、アネットにはまだ判じきれなかった。
「倦怠感、痺れ、夜の咳。教会の治癒師でも、城の医師でも、効果が出ないとの由。ところが、ここヴォルクハイムから流れてきた『滋養剤』が、不思議とよく効く。あなたの店から流れたものだろうと、当方の伝手で辿り着きました」
ヴォルクハイムから流れた、と男は言った。
アネットは、わずかに目を伏せた。グレタや街の冒険者たちが、隊商と共に他領へ薬を運ぶことは、すでに何度かある。それが街道を伝い、商人の手を経て、王都にまで届いていたのだろう。アネットの意図しないところで、薬の評判が静かに広がっていたのだ。
ふと、別の確信が降りた。
原因不明の病。倦怠感、痺れ、夜の咳。それは、一年前、父に出ていた症状と完全に同じだった。リリィの茶会に頻繁に通い詰めた者の症状でも。
中央で、ついに、毒の影響が広く出始めている。
「ご提案には、感謝いたします」
アネットは、台帳を開かぬまま、男に押し戻した。
「けれど、お引き受けはできません」
「なぜ、と伺っても」
「私はもう、中央とは関わりたくないのです。そのお返事だけで、十分でしょう」
男の顔から、慇懃さがわずかに剥げた。
「お言葉ですが、薬師殿。中央には、命にかかわる方々がいらっしゃる。お一人の感情で、その方々を見捨ててよろしいので」
「お引き取りください」
アネットは、静かに、しかしはっきりと告げた。
男は、しばらく口を結んでいた。それから、台帳を閉じる手つきが、わずかに荒くなった。次の瞬間、扉の外から、低い声が落ちてきた。
「うちの薬師に、随分しつこいな」
男が振り返る前に、店の入口に、漆黒の影が立っていた。
ガルシア。視察の途中で立ち寄ったらしい。彼の赤い瞳は、男の頭からつま先までを、ひと舐めにした。
「中央の商売人か。話は聞いていた。アネットは断った。ならば、それで終わりだ」
「閣下、私は正当な商談を……」
「正当な商談に、領主の薬師が二度も嫌だと言わせるのを、正当とは言わん」
ガルシアの声は、抑えていたが、低く重かった。男はそれ以上の抗弁を諦め、深々と礼をして、馬車に戻っていった。
黒塗りの馬車が街道の向こうに消えるまで、ガルシアは扉の前に立ち続けていた。アネットは長く息を吐き、ガルシアの背に向かって、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいい」
ガルシアは振り向かずに答え、それから、ぽつりと付け加えた。
「中央で、何かが、始まっているな」
アネットは、手に持った湯呑みを、じっと見つめた。
夏の風が、店先の薬草を、ゆっくりと揺らしていた。




