第16話
目を覚ましたとき、机の天板に頬の跡がついていた。
窓の外は、もうすっかり朝だった。雨上がりの光が、磨かれた床に水たまりのように落ちている。アネットは慌てて顔を上げ、長椅子の方を見た。
ガルシアの目が、開いていた。
しかも、こちらを見ていた。
アネットは、思わず椅子を蹴って立ち上がった。寝間着の上に羽織を引っかけたままの格好を思い出し、頬が一気に熱くなる。
「閣下、お目覚めに……あの、失礼を、私、机で寝てしまっておりまして……」
「いつから見られているか、気にしているのか」
ガルシアの声は、まだ少し掠れていた。けれど低く、確かな響き。
「だいぶ前からだ」
「……まあ」
アネットは羽織を強く握りしめた。ガルシアは眩しそうに目を細めると、ゆっくりと身を起こそうとした。アネットは慌てて駆け寄り、その肩を押し戻した。
「動かれませんように。傷は塞がっていても、内側はまだ修復の途中です」
「分かっている」
ガルシアは素直に身を横たえ、天井を見上げた。
しばし、沈黙が落ちた。
アネットは長椅子の脇に椅子を引き戻し、湯を注いだ温かい煎じ液を差し出した。ガルシアはそれを受け取り、ゆっくりと飲んだ。喉仏が、上下に大きく動く。
飲み終えると、彼は碗を置き、初めてアネットの顔を、まっすぐに見た。
「お前は、俺を救った」
短い言葉だった。けれど、声の中に、これまでにはなかった何かが宿っていた。
「俺の命は、もうお前のものだ。何が望みだ。金か。地位か。中央への口添えなら、もう手は届かんが、辺境の中の話なら何でもしてやる」
飾りのない、武人の礼だった。アネットは膝の上で手を組み、しばし考えた。考える時間が必要だったわけではない。答えは、すでに自分の中にあった。
ただ、それを口にする勇気を、整えていただけだった。
「望みは……この店を、続けさせていただくことだけです」
「店だと」
「はい。屋根があり、庭があり、母の薬草が芽吹く場所があれば、それで十分です。お金は、薬を売って稼げます。地位は、いりません。私はもう、令嬢ではございませんから」
ガルシアは、長くアネットを見つめた。
その赤い瞳の中に、戸惑いと、何かを噛みしめるような光が、交互に灯った。
「中央の女は」
ぽつりと、ガルシアは呟いた。
「俺の姿を見て、まず宝石をねだる。次に領地をねだる。最後に、俺の血を一族に入れたいとねだる」
「……それは、お疲れになりますね」
言ってから、アネットは少し笑ってしまった。気を緩めるつもりはなかったのに、自然に零れた笑いだった。ガルシアも、口の端が、ほんのわずかに上がった。武骨な顔に、初めて見る種類の表情だった。
「お前は、俺の血の話も、しないのだな」
「私は、薬師ですから」
アネットは、ガルシアの首筋の鱗にちらりと視線を送って、すぐに目を伏せた。
「血の違いは、薬の処方の違いです。差別の理由には、なりません」
ガルシアは、しばらく言葉を失っていた。やがて、彼は小さく息をついて、言った。
「ガルシアだ」
「はい?」
「俺の名だ。閣下、御領主様、辺境伯。俺はもう、お前にそう呼ばれたくない」
アネットは、息を止めた。
それが、辺境伯ガルシア・ヴォルクという男にとって、どれほどの距離の縮め方なのか。武骨で口下手な男が、一晩眠って目覚めて最初に口にする決意としては、彼にできる最大限のことなのだろう。
「……ガルシア様、と」
アネットは、控えめに譲歩した。
「様、はいる」
「いりません」
ガルシアは即答し、低く笑った。アネットも、もう一度、笑った。
朝の光が、ゆっくりと、二人の間に降り積もっていった。




