第15話
その夜は、雨だった。
屋根を叩く雨音で、アネットはなかなか寝付けずにいた。階下の店では、少し前に運び込まれた病人の咳が時折響いている。半月前の毒の一件以来、ガルシアの城からは何度か兵士が薬を求めに訪れていた。アネットの店は、すでに辺境の医療の一翼を担いつつある。
二階の寝台で寝返りを打った、その時だった。
階下の扉が、激しく叩きつけられた。
「アネット殿! 開けてくれ! 早く!」
切迫した男の声だった。アネットは飛び起き、ろうそくの火で階段を駆け降りた。閂を外すと、雨と血の匂いが、いっぺんに店内に流れ込んできた。
兵士が四人。雨に濡れた漆黒の鎧を、両側から支え上げている。
ガルシアだった。
「閣下が、魔の森の魔物に。中央の医師を呼ぶ時間はない。頼む、アネット殿」
ガルシアは意識を失っていた。腹部の鎧が深く裂け、内側から赤黒い血が滴っている。アネットは一瞬だけ立ち竦み、すぐに長椅子を指し示した。
「こちらへ。鎧を、外せる範囲で外してください」
ガルシアの肌は、人間のそれとは違っていた。
脇腹から首筋にかけて、鎖のような細かい鱗が走っている。竜人の血。傷を診るために衣を切り裂きながら、アネットは深く息を吸った。母の手記の中の、わずか数行の記述を懸命に手繰り寄せる。
《竜人の血を引く者は、人とは血の循環が異なる。通常の止血薬は効きが弱く、解毒の効きも遅い。代わりに、火竜草の根を煎じた液を、傷口に直接注ぐべし》
火竜草。庭の隅に、念のため植えてあった。アネットは雨の中へ駆け出し、根元から数本を引き抜いて戻った。指が震えていたが、震えながらでも、手は覚えた手順をなぞる。
乳鉢で根を擂り、湯を注ぎ、煮詰める。鎧の隙間から続く出血を、清潔な布で押さえながら、煎じ液が出来上がるのを待つ。兵士たちは固唾を呑んで、一切口を挟まなかった。
煎じ液を、傷口に流し込む。
ガルシアの体が、わずかに痙攣した。皮膚の下の出血が、ゆっくりと収まっていくのが分かった。普通の人間ならば三倍の時間を要する止血が、竜人の体ではこんなに早い。母の記述は、正しかった。
次に、内臓を労わる香草を煎じ、口を割って少しずつ流し込んだ。鎧の下に手を入れ、心臓の鼓動を確かめる。強くはないが、確かに、刻まれていた。
処置が一段落したとき、外の雨はまだ降り続いていた。
兵士たちには城へ戻るよう伝えた。一晩中ここで見守るのは自分の役目だと、いつの間にか肚は決まっていた。長椅子の脇に低い椅子を引き寄せ、湯を継ぎ足し、布を取り替える。
ガルシアの呼吸は、最初は細く、不規則だった。
深夜、ふいに止まりかけた瞬間があり、アネットは咄嗟に胸を押して、強く呼びかけた。「閣下、息をしてください」と何度も声を絞り出すうち、ようやく胸が、再び大きく動いた。
涙は出なかった。出る暇がなかった。
ただ、この人を死なせてはいけない、それだけが、頭の中で鈍く脈打っていた。
夜明け前、雨が止んだ。
ガルシアの呼吸が、静かに、深く、安定してきた。アネットは布を取り替え、火竜草の煎じ液を温め直そうと、立ち上がりかけて――足から力が抜けた。
机に手をつき、そのまま伏せた。
徹夜の疲労と、安堵と、強張っていた緊張が、ひとつの波になって押し寄せた。眠るつもりはなかった。けれど目蓋は重く、頬が机の天板に触れた瞬間、もう開かなかった。
ろうそくが、最後の一本になっていた。
その小さな灯りの下で、ガルシアの目蓋が、わずかに開いた。
彼の赤い瞳が、机に伏せて眠る娘の姿を、長く、長く見つめていた。
言葉は、出なかった。




