第14話
その夜、扉を打つ音は乱暴だった。
時刻は、すでに丑三つを過ぎていた。アネットは寝間着の上から羽織を引っかけ、急いで階段を駆け降りた。扉を開けると、月明かりの下に、息を切らせた騎士が立っていた。
「薬師殿! どうかお助けを!」
騎士の背後で、二人の兵が、担架に乗せた男を抱えていた。横たわる男の顔は土気色で、首筋に黒い斑が広がっている。痙攣しているのか、四肢が時折びくりと跳ねた。
「魔の森で、新種の魔物に襲われました。城の医師がさじを投げまして、辺境伯様のお名で、こちらへ。失礼を承知のお願いでございます」
城。辺境伯の名。アネットは扉を大きく開け、迷わず告げた。
「中へ。長椅子の上に、横にしてください」
灯油を増やして燭台を並べ、毛布を敷く。担架から男を移すと、衣服越しでも体が異常に冷たいのが分かった。アネットは脈を取り、瞳孔を確かめ、黒い斑の周辺の皮膚をそっと押した。固く、冷たく、感覚を失っている。
既知の毒ではなかった。母の手記にも、これに完全に一致する記述はない。
アネットは、しばし目を閉じた。
既知の処方が使えないなら、原則に立ち戻るしかない。母の手記の、最後の章。
《未解明毒の対症療法》
毒の正体が分からぬとき、症状の連鎖を一つずつ止めていく。冷えには温め、痙攣には鎮め、呼吸には息を通す。根を絶てなくとも、火の手だけは抑え続ける。それを、毒が体外に排出されるまで、ひたすら繰り返す――。
迷っている時間はなかった。
アネットは奥から数本の小瓶を取り、湯を沸かし、湯気の中に解熱と鎮痙の薬草を浮かべた。男の口元へ運び、湿らせた布で唇を湿す。直接飲ませるには弱りすぎていた。
次に、首の黒い斑の上に、解毒花の濃い煎じ液を浸した布を当てた。皮膚から、わずかでも毒を吸い出せるかを賭けた処置だった。それから掌で胸を温めながら、心臓と肺の動きを支える香草を、別の煎じ液で吸わせた。
処置を終えた頃には、東の空が白み始めていた。
兵の四肢が跳ねる回数が、減っていく。
二刻もすると、痙攣はほとんど止まった。脈が、わずかに力を取り戻す。アネットは新しい湯気を作り、布を取り替え、煎じ液を継ぎ足し、また新しい布を作った。何度繰り返したか、もう覚えていない。
黒い斑が、少しずつ薄まっていった。
夜明けの光が窓から差し込んだとき、男の目蓋が、震えるように開いた。
「ここは……」
かすれた声だった。アネットは思わず長椅子の脇に膝をつき、男の額に手を当てた。熱は引きつつあった。
「薬師の店でございます。今は、お休みになって」
男は何かを言いかけ、再び意識を失った。
今度は、毒による昏睡ではない。深い眠りだった。アネットは長く息をつき、長椅子の傍らに座り込んだ。
扉が、静かに開いた。
「具合は」
短く、低い声。振り返るまでもなく、誰のものか分かった。
ガルシアは、鎧のままだった。
夜通し、城の方で報告を待っていたのだろう。漆黒の鉄の隙間に、わずかな朝の光が差している。アネットは立ち上がり、目を擦った。
「峠は越えました。三日、ここで眠らせてあげてください」
ガルシアは横たわる兵の顔を見、そして長椅子の脇の床に並んだ、無数の使い切った小瓶と、湿らせた布の山に目を落とした。
しばし、沈黙が流れた。
「お前」
ガルシアの声が、わずかに掠れた。
「中央の医師が匙を投げた毒だ。何者なのだ、お前は」
「ただの薬草師でございます」
アネットは、平静に答えた。
答えるたびに、自分の中に、確かなものが積み上がっていく気がした。ガルシアは、長くアネットを見ていた。赤い瞳の奥に、これまでにはなかった色が、ひとつ、芽吹いた音がした。




