第13話
半月ほど経った朝、街がにわかに騒がしくなった。
冒険者たちが武具を磨き、商人が店先に並べる品を整え、女たちは子供たちを家に呼び戻している。井戸端の女から「辺境伯様の御視察だ」と教えられたとき、アネットは思わず手を止めた。
ヴォルクハイムの領主、ガルシア・ヴォルク。
父の手紙を届けたあとも、アネットの元へは何の連絡もなかった。父の旧誼に応える気がないのか、忙しいだけなのか。それすら分からぬまま、半月を過ごしていた。
軒先で薬草を干していると、街道の方角から、馬の蹄の音が近づいてきた。
アネットは顔を上げ――そして、息を止めた。
漆黒の鎧の巨躯が、街並みをいっぺんに小さく見せていた。
馬上の影がアネットの店の前で停まったとき、街路の人々はいっせいに膝をつき、頭を垂れた。アネットも慌ててエプロンの土を払い、深く礼をした。
顔を上げる前から、分かっていた。あの夜の街道、五人の野盗を十秒で沈めた剣の主。あの炭火のように赤い瞳。
ガルシア・ヴォルクは馬から降り、土で汚れたアネットの店の看板を、しばし見上げていた。
「アネット・モンフォール、で間違いないか」
低い、地鳴りのような声。あの夜と同じだった。
「はい。アネットでございます」
「父上のヴィルマール卿から、書状を受け取った」
ガルシアは短く告げ、鎧の腰から、見覚えのある封書を取り出した。父が託した、あの書状だった。
「読んだ。返事をしようとしていた矢先、ギルドのグレタから別の話が転がり込んできた。腕のいい薬師が街道沿いに店を開いたとな。同じ娘か、確かめに来た」
アネットは、もう一度、丁寧に頭を下げた。
「ご光栄に存じます」
ガルシアは、答えなかった。
彼の赤い瞳は、店の中をひと巡りした。
磨かれた棚、整理された薬瓶、奥の机に置かれた古びた手記、庭の片隅に芽吹き始めた苗。十秒ほどの沈黙のあと、ガルシアは視線をアネットの顔に戻した。
冷たい目だった。あの夜と、変わらない。
「中央の貴族令嬢が、こんな辺境で何を企んでいる」
核心を、ためらいなく突いてきた。
ヴォルクハイムは中央への警戒心が強い土地だ。書状一通で警戒が解けるなら、辺境伯は務まらない。アネットは姿勢を正し、相手の瞳をまっすぐに見返した。
「企みはございません。ただ、中央には、私の居場所がなくなりました。それだけのことです」
「居場所。お前の家は伯爵家だろう」
「家督継承権を、剥奪されました。婚約も破棄され、王都への出入りも禁じられております。罪状は、毒物混入。けれど、私は何も盛ってはおりません」
言ってから、自分でも驚くほど、声が平らだった。
もう、傷ではないのだと、その時に知った。あの夜会の出来事は、すでに遠い場所の遠い話で、語るときに胸が震えることもない。
ガルシアの片眉が、わずかに上がった。
「無実だと、俺に言いたいのか」
「いいえ」
アネットは、首を横に振った。
「申し開きをするつもりはございません。私は薬師として、この街で生きていきたいだけです。御領主様が私の存在をお許しくださるのでしたら、その御恩には、薬で報います。それ以上のことは、何も望みません」
風が吹いた。ガルシアの黒髪が揺れ、アネットの前掛けの紐がはためいた。
ガルシアは、長く沈黙した。やがて、ふん、と短く鼻を鳴らした。
「中央の女らしくもない口の利き方だ」
褒められたのか、貶されたのか、判然としなかった。
ガルシアは封書を懐に戻し、馬の鞍に手をかけた。背を向けたまま、ぽつりと言った。
「店、続けろ」
それだけ言って、彼は馬上の人になった。
漆黒の影が、街路の向こうへと去っていく。アネットはその背を、いつまでも見送っていた。




