母親と言う恋人【4】
なんとも朗らかで、ハートフルな空気が流れていた。
とっても些末な会話で、一喜一憂している光景が……空間が広がっていた。
イリは思う。
こんな空間があったと言うのに……未来の俺は、スラムで必死に生きる羽目になるんだよな……と。
別段、父や母を恨むつもりはない。
もはや、そんな事は今更ではあったし……決して、やりたくてやった訳ではないと言う事も、この時代にやって来た事で、文字通り実感していた。
けれど……思った。
出来れば……そう、可能であれば。
この、他愛のない会話で何気ない毎日を送り続ける……こんな、平凡な温もりのある空間の中で……自分は育ちたかったなぁ……と。
既にスラムを経験した過去を持つイリがいる以上……そんな事は例え未来が変わっても不可能であると言う事は重々承知していたのだが……けれど、ちょっとした願望めいた物を抱きたくなる。
それだけ、穏やかにして温和な空気が、当たり前の様に生まれていたのだ。
……と、ひとしきり現状にある空気と言う物の良さに実感していたイリがいた頃、
「これからも、妹の事をよろしくね?」
トミィが、イリの右肩を軽くポンと叩きながらも答えて来た。
「ああ、もちろんだ」
今ある雰囲気に和んでしまい、ほんわかした気持ちに思考が埋まっていた頃……急に現実へと戻されてしまったイリは、少しハッとした顔になってから、笑みでトミィへと頷きを返していた。
心が……軋んだ。
本当は『ああ、もちろん』なんて台詞を、自分が吐いてはいけない。
そんな言葉を言う権利なんて……ない。
けれど、ここで否定する様な台詞を吐けるだけの気概も……なかった。
結局……心が弱い自分がいた。
最低な人間だと思われる事が怖い自分がいた。
そして、もっと最低な事をしれっとやっている自分がいた。
……本当に、どうしてこんな事になってしまったんだか……。
胸中で自問するイリ。
もちろん、答えなど出ない。
まるで、見えないトンネルの中にでも入り込んでしまったかの様な気分だ。
最低な人間にはなりたくない!
最低な人間と思われたくない!
そう、自分に言い聞かせ……ドンドンと深みにハマって行く自分に……イリの嫌悪感は増幅の一途を辿って行くのだった。
□キリ□
イリは優しい人だ。
この事実を、私は否定するつもりはない。
けれど……思う。
イリは、きっと……ズルい男だ……と。
自分の解釈で、私と言う女を傷付けまいと頑張っている。
その気持ちは優しさから来ている事は認めるし……だからこそ、私はイリが優しい男性である事に対して、一切の否定をする事もない。
だけど……違うよね?
間違いないんだよ。
イリは、直接私に言って来る事もないし……優しい言葉をいつだって掛けてくれる。
そして、私は自由に甘えさせてくれるイリへと、そのまま素直にべったりとくっ付いている。
彼は普通に私へと愛情を注いでくれるし……受け止めてくれる。
だからこそ、私は思う。
ズルい男だ……と。
時間が過ぎれば過ぎる程……私は思う。
思い知らされてしまう。
……キイロって言う女に対して、イリが抱いている想いを……だ。
私がその名前を知ったのは、単なる偶然だった。
そう、本当に偶然。
今朝の事だ。
私は、普段よりも一時間は早く起きていた。
だからと言うのも変な話しなんだけど……まだ寝ているだろうイリの部屋に行って、さり気ないモーニング・コールをしてあげようと考えた。
ちょっと驚くかな?
……でも、もう、私とイリは相思相愛の恋人同士だし、この程度の事なら全然大丈夫だよね!
……と、その時の私は、軽い足取りでイリの部屋でもある屋根裏部屋へと向かった。
それにしても、こんな物置みたいな所で、良く眠れるなぁ……?
私ならマジで無理だと思うし……いっそ、こんな部屋で寝泊まりするのなら、私の部屋で一緒に寝た方が良いんじゃないのかな?
そうすれば……ほら?
ずっと一緒に毎日寝れるし?
場合によっては、姉妹の中で一番早く子供を産む事になっちゃうかもっ⁉︎
思い切り昂った感情を胸に……私はイリの部屋へとやって来た。
……おお、寝てる寝てる。
本当にグースカ寝てるよ。
二度言う様でアレだけど、本当に良くこんな物置みたいな所で寝れるね?
……ってか、物置き『みたいな場所』じゃなくて、正真正銘の物置きだった。
……うん。
そう考えると、なんだかちょっぴり同情心が湧いて来たよ。
やっぱり、イリは近日中にでも、私の部屋に引っ越して来た方が良いと思うな?
……そんな事を考えていた時だった。
「……キイロォ……飯はまだかよ……」
イリの声がした。




