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宇宙船《ノクターン号》  作者: ひろゆら
第二章 山岳の星セリオン

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第9話 渡す

空が少しずつ明るくなって、牧場に静かな朝が来た。窓の外は見渡すかぎり、雲の海が広がっていた。

小屋の中では、くすんだ青の卵が、また小さく揺れた。

こつん。

殻の内側から、小さな音がした。

小屋の外では、牧場で働く人々が竜舎の間を行き来し、飼い葉を運んでいる。荷物を運ぶ人の声、留め具を確かめる音、竜たちの低い鳴き声。雨上がりの土を踏む足音が、あちこちで聞こえていた。

昨夜、囲いを壊して逃げた淡い色の若い竜も、今朝は静かに飼い葉を食べていた。エイルが斜面から連れ戻したあの竜だが、もう気が立った様子はなかった。

ここでは、竜が生まれる日も特別に静まり返ったりはしない。働く一日の中に、新しい命がひとつ加わる。ただそれだけのことだった。

リオラは、夜明け前から起きていたらしい。土間にはお湯を張った桶が置かれ、きれいに畳まれた布が、卵のすぐそばに用意されていた。もう何度も、こうして支度をしてきたのだろう。

「座って待ちな。長くなることもある」

そう言って、リオラは作業台のそばに低い椅子を引いてきた。急ぐ様子はない。ただ、卵から目を離さなかった。

エイルは、卵のすぐ前にしゃがみ込んだ。膝を抱え、瞬きするのも惜しむように、殻を見つめている。

ミレアは少し離れて、戸口の柱に背を預けた。

母屋の裏手で、竜たちの鳴き声が大きくなった。一頭ではない。竜舎の竜たちが、何かを察したように、順に喉を鳴らしている。

「あの子たちも、分かるんですか」

エイルが小声で聞いた。

「仲間が増えるからね」

リオラは、外の方へ少しだけ目をやった。

「卵が動き出すと、竜舎が騒ぐ。いつも、あいつらの方が先に気づくのさ」

殻の表面に、細い線が走った。

エイルが、思わず身を乗り出す。

リオラは、動かない。卵から目を離さず、ただ見つめている。

けれど、何もしないわけではなかった。

殻が乾きすぎないよう、湿らせた布をそっと卵にかける。それくらいのことしかしなかった。生まれてくるのを、生まれやすいように見守っていた。

その手つきを、エイルはじっと見ていた。

こつん、こつん、と音が続いた。

細い線は、やがて一本のひびになり、ひびは枝分かれしていった。

殻の一部が、内側から押し上げられる。

小さな、濡れた突起が覗いた。鼻先だった。

エイルが息を呑んだ。

突起は、また引っ込んだ。少し間を置いて、もう一度押し出される。今度は、さっきより深く。

殻が、ぱきりと音を立てて欠けた。

そこから先は、なかなか進まなかった。

中の子は、同じ場所を何度も押しては、ひと休みするように動きを止める。

時々、ひときわ強く押すと、殻全体が震えた。それでも、割れ目はなかなか広がらなかった。

リオラの顔が、初めて少しだけ険しくなった。

「……ここでやめる子も、いる」

その一言で、小屋の空気が変わった。

エイルが、息を詰めて卵を見つめた。

けれど、リオラは動かない。卵から、目を離さない。

その横顔が、エイルを引き止めていた。

疲れて、休んで、また押す。そうやって出てくるのを、リオラはただ待っている。

それでも、中の子はなかなか動かなかった。

エイルが、膝の上で両手を固く握っている。

ミレアは、何も言わなかった。

どれくらい、そうしていただろう。

中の子が、ひときわ強く身をよじった。

ぱきっ、と乾いた音がして、殻が大きく割れた。

濡れた頭がぐいっと突き出て、折りたたまれた前足が殻の縁を掴んだ。

そして、小さな体がもがきながら、殻の外へ転がり出た。

くすんだ青の小さな竜だった。

まだ殻のかけらを背中につけたまま、細い手足を投げ出している。その体は、両腕で抱えるほどの大きさだった。

ぺたりと床に伏せ、肩で息をしている。手足はまだ頼りなく、たたまれた翼は、まだ濡れて体に貼りついていた。

しばらく、動かなかった。

やがて伏せていた体がかすかに動いて、小さな頭が頼りなく持ち上がった。

まぶたがゆっくりと開くと、霞んではいるが、確かに何かを映している目があった。

「きゅう」

か細い声が、小屋に響いた。

エイルの顔が、くしゃりと崩れた。泣きそうな、笑いそうな顔だった。

「……生まれた」

リオラが、初めて表情をゆるめた。

「ああ。生まれたね」

何十年も竜を取り上げてきた人の顔に、それでも、初めて見るような柔らかさがあった。

ミレアは、いつの間にか柱から背を離していた。

もう卵ではない。その小さな生き物の方へ一歩近づいていた。

これまで、数えきれないほどの荷物を運んできた。割れ物も、生き物も、得体の知れない黒い箱も。

だが、運んだ荷物の中から、命が生まれてくるのを見たのは初めてだった。

子竜は、何度も転びながら、立とうとした。

リオラが布を広げ、そっと体を拭いてやった。慣れた手つきだったが、力はまるで入っていない。壊れ物に触れるような手だった。

体が乾くにつれ、くすんだ青は、少しずつ澄んだ色になっていった。朝の光の中で、その小さな鱗が、淡く青みを帯びて光った。

やがて、子竜が、ふらつきながら歩き出した。

竜の世話を何十年もしてきたリオラの方ではなく、まっすぐに――エイルの方へ、よろよろと進んでいく。

子竜は、エイルの膝に頭をこすりつけ、その手の匂いを確かめるように嗅いだ。

それから、安心したように、もう一度「きゅう」と鳴いた。

リオラは、その様子を黙って見ていた。驚いた顔ではなかった。何度も見てきた光景を、また見た、という顔だった。

「卵の頃から、ずっとお前のそばにいたからね」

リオラが、静かに言った。

「この子らは、生まれて最初にそばにいた者を、家族だと思い込む。匂いを覚えて、決めちまうんだ」

ミレアは、戸口のそばから、それを見ていた。

エイルの顔が輝いている。ミレアは何も言わず、少しだけ目を細めて視線を窓の外へ移した。

昼まで、子竜はエイルから離れなかった。

よちよちと歩いては転び、起き上がってはまたエイルの足にぶつかる。何かに当たるたびに、驚いて「ぴい」と鳴いた。

リオラが、やわらかい飼い葉を少しだけ差し出した。子竜は匂いを嗅ぎ、最初は怪しんでいたが、エイルが手を添えてやると、ようやく口をつけた。

竜が転べば手を伸ばし、鳴けば顔を覗き込む。

ミレアは、戸口のそばに腰を下ろし、その様子を見ていた。

本当なら、もう出発できた。それでも、ミレアは急がなかった。

エイルは、膝の上で丸くなる子竜をそっと撫でた。

その口が、小さく動いた。何か、呼びかけようとしていた。

名前を。

「――」

「名は、まだつけるな」

リオラの声が、静かに割って入った。

エイルが顔を上げる。

「名づけるのは、育てる者の仕事だ。お前さんがつけたら……」

リオラは、その先を言わなかった。

言わなくても、エイルには分かった。

名前をつけたら、この子は、自分の子になってしまう。

――でも、この子は、自分の子じゃない。

自分は、この星には留まれない。

エイルは、開きかけた口を静かに閉じ、呼びかけようとした名前を呑み込んだ。

昼を過ぎると、雲が晴れた。

小屋の窓から、乾いた尾根が見えた。山道の足場も、もう乾いているだろう。

ミレアが、立ち上がった。

「……そろそろね」

急かす声ではなかった。けれど、それは出発の合図だった。

いつまでも、ここにはいられない。次の港が、次の仕事が待っている。

エイルは、膝の上の子竜を見下ろした。

この仕事は、卵を届けることではなかった。

卵の中にいたこの子を、無事にリオラへ渡すこと。それが、最初からの依頼だった。

――渡して、初めて、仕事は終わる。

エイルは、子竜を両手で抱え上げた。

そして、リオラの方へ、差し出した。

「……お願いします」

声が、少しだけ掠れた。

リオラは、その子竜を、両手で受け取った。

竜を、何十年も受け取ってきた手だった。

受け取られた子竜は、すぐに身をよじって「きゅう、きゅう」と鳴いた。

短い手足をばたつかせ、エイルの方へ戻ろうとする。

エイルの手が、一度だけ伸びかけたが、握りしめて引いた。

ミレアは、その手を見ていた。

伸ばして、引く。たったそれだけの動きがどれだけ重いかを、ミレアは知っていた。

リオラは、子竜を胸に抱き直し、低い声で何か囁いた。竜を呼ぶときの、昔からの声だった。

子竜は、しばらくもがいていたが、その声とリオラの手の温かさに、少しずつ力を抜いていった。

鳴き声が、小さくなる。

やがて、リオラの腕の中で、子竜は落ち着いた様子で目を閉じた。

「大丈夫だ」

リオラが、エイルを見て言った。

「この子は、ここで、ちゃんと育つ。あたしが育てる」

エイルは、うなずいた。

何か言おうとして、結局、もう一度うなずくだけだった。

リオラは、正式な受領の手続きをした。

ミレアの端末に、依頼完了の表示が出る。

ポータードラゴンの卵、改め、その幼体。受取人、リオラ・フェン。

牧場を出るとき、リオラは柵の前まで見送りに出た。

「世話になったね」

「こっちこそ」

ミレアが短く答えた。

リオラは、エイルの肩を、ぽんと叩いた。

それから、ミレアの方へ顔を向けた。

「いい子を連れてるね」

ミレアは、肩をすくめた。

「勝手に乗ってきたのよ。降ろしそびれただけ」

「そうかい」

リオラは、笑った。

山を下りる道は、登ってきた道と同じだった。

何かを置いてきた帰り道は、いつも体のどこかが軽い。その感覚を、ミレアはよく知っていた。

空は、もうすっかり晴れていた。

竜舎の鳴き声が、少しずつ遠ざかっていく。

やがて、それも聞こえなくなった。

山麓の着陸場に、《ノクターン号》は待っていた。

ひと晩、無人で着陸場に置かれていた船体が、午後の光を照り返している。

ミレアがタラップを上がると、後ろからエイルがついてくる。船内の照明が、二人を迎えるように灯った。

船のスピーカーから、クロードが声をかけてきた。

『お帰りなさい。牧場での用件は、お済みですか』

「済んだわ」

ミレアは短く答えた。

『荷物の引き渡しを確認しました。報酬の入金も確認済みです』

「これで燃料は入れられるわね」

『はい』

ミレアは、貨物区画へ寄った。

保温カプセルを固定していた台は、もう空になっている。

ミレアは、慣れた手つきで、余った固定ベルトを一本ずつ畳んでいった。

いつもの作業だった。荷物を降ろしたあとは、いつもこうする。

黒い箱を降ろしたあとも、こうしていた。

荷物は、いつか降ろす。預かって、運んで、渡して、また空にする。その繰り返しで、この船はここまで来た。

空になった台は、寂しいものではなかった。次の荷物が乗るための場所だ。

エイルは、その空いた台を、しばらく見ていた。

何か言うかと思ったが、結局、口を開かなかった。

ベルトを畳み終えると、軽くエイルの肩を叩いてブリッジへ向かった。

ブリッジに戻ると、クロードの声が響いた。

『港湾掲示板に、新しい配送依頼が出ています』

ミレアは操縦席に座り、表示を開いた。

行き先は、セリオンの外縁にある、小さな別の港だった。

目立つ依頼ではない。けれど、次の行き先には十分だった。

「行き先、入れておいて」

『了解しました』

低い駆動音が、船内に響き始める。

《ノクターン号》は、ゆっくりと高度を上げていった。

窓の外で、山も、雲の海も、少しずつ小さくなっていく。

エイルは、その景色を黙って見ていた。どのあたりが牧場なのかは、もう分からない。

やがて船は雲を抜け、窓の外いっぱいに、星の海が広がった。

預かったものを、無事に届けた。今回も、それだけのことだった。

けれど悪くない仕事だった、と思う。ミレアの目もとが、ほんの少しだけやわらいだ。

「さて」

操縦桿に手をかける。

「次の港へ行くわよ」

『かしこまりました』

――《ノクターン号》は、次の航路へ向かう。

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