第8話 牧場の一日
牧場へ着く頃には、薄日はとうに翳り、谷から湧いた霧が山道を包んでいた。
牧場の灯りは、その霧の中に滲んでいた。
近づくにつれ、それは一つではないことが分かった。母屋らしい建物の窓、低い柵に沿って並ぶ誘導灯、そして奥の方に、いくつもの小さな明かりが点々と灯っている。
エイルが背負子を背負い直しながら言った。
「明かりがたくさんあるな。大きい牧場なのかな」
「育成牧場だもの。あの一つ一つが、竜舎なんじゃない?」
ミレアは霧の向こうへ目を凝らした。
雨上がりの空気は冷たく、濡れた草と土の匂いに、別の匂いが混じっていた。獣の匂いだった。馬とも犬とも違う、もっと大きな生き物の気配が、霧の奥から漂ってくる。
柵の前まで来ると、母屋の扉が開いた。
灯りを背にして、一人の女性が立っていた。
五十代だろうか。髪を後ろで束ね、厚手の作業着を着ている。手には古いランプを提げていた。背は高くない。だが、その立ち方には、山で長く暮らしてきた人間の落ち着きがあった。
「マロウから連絡をもらってる」
女性は短く言った。
「リオラ・フェンだ。あんたが運び屋かい」
「ミレア・アークライト。こっちはエイル」
リオラの視線が、エイルの背負子へ移った。
「それかい」
「卵です」
エイルが少し緊張した声で答えると、リオラは小さくうなずいた。
「濡れただろう。中へ」
母屋の中は暖かかった。
土間の奥に古い暖房器具があり、低い音を立てている。壁には作業具が掛けられ、棚には記録帳らしい束が積まれていた。観光客を迎える家ではない。働く人間の家だった。
リオラは背負子からカプセルを受け取ると、土間の作業台へ慎重に置いた。
そして、両手で側面に触れた。
温度計を確かめ、留め具を外し、上部の小窓を覗き込む。その手つきには、迷いがなかった。何度も同じことをしてきた手だった。
ミレアは黙ってそれを見ていた。
荷物を渡す相手を、ミレアはいつも見る。受け取る手つきを見れば、その相手が荷物を大事に扱うかどうか、大体分かる。
リオラの手は、安心して渡せる手だった。
「無事だね」
リオラが言った。
「山道で揺れただろうに、よく持たせてくれた」
「途中で温度が下がって、予備バッテリーで戻しました」
ミレアが言うと、リオラは温度計をもう一度見て、短くうなずいた。
「処置は正しい。冷えたから弱った、ってわけじゃない。この子は元気だよ」
エイルの肩から、力が抜けるのが分かった。
リオラはカプセルを抱えて、奥の戸口へ向かった。
「奥の保温用の棚に移す。ついておいで」
扉の向こうは、低い天井の小屋だった。壁際に、棚がいくつも並んでいた。そのいくつかに、卵を入れたらしい保温箱が収まっている。一定の温度に保たれ、かすかな機械音が響いていた。
リオラはカプセルから卵を取り出し、空いた箱へ移した。
両腕で抱えるほどの、大きな卵だった。
卵の殻は、灰色がかった青をしていた。
エイルはそれを見つめた。霧と山道の向こうから運んできたものが、目の前にあった。
「……これが」
「ポータードラゴンの卵だ。今夜か、明日の朝あたりだろうね」
リオラは箱の蓋を半分だけ閉めた。
「生まれる時は、卵が決める。こっちが急かすもんじゃないよ」
ミレアは、その言葉を黙って聞いていた。
外で、低い鳴き声がした。
一つではない。いくつもの声が、霧の向こうで重なっている。
エイルが顔を上げた。
「今の、竜?」
「夕飯の催促だよ」
リオラはランプを取った。
「手が空いてるなら、見ていくといい。山の竜は、港じゃ見られないよ」
竜舎は、母屋の裏手にあった。
低い屋根の下に仕切られた囲いが並び、それぞれに一頭ずつ、大きな影が収まっている。ミレアが近づくと、影の一つがゆっくりと首をもたげた。馬ほどの大きさの、しなやかな体。たたまれた翼。鼻先をこちらへ向け、匂いを嗅ぐように深く息を吸った。
エイルが思わず一歩下がった。
「で、でかい……」
「子供の頃は猫くらいだよ」
リオラは一頭の首筋に手を当て、軽く叩いた。竜は喉の奥で低く鳴き、目を細めた。
「こいつはトロウ。うちで一番の働き手。山道なら車両より頼りになるよ」
リオラは飼い葉を運び、一頭ずつ様子を見て回った。脚を持ち上げて爪を確かめ、翼の付け根に触れ、短く声をかける。竜たちはその手を嫌がらなかった。むしろ、待っていた。
ミレアは、その光景を少し離れて見ていた。
ここでは竜は道具でも、愛玩でもなく、仕事を分け合う相手だった。こんな暮らしは、この星にしかないだろう。
「運び屋は、荷物を置いたらすぐ発つもんだと思ってたよ」
リオラが手を止めずに言った。
「荷物の行く先は、見るようにしてるの」
「珍しいね、そういうのは」
「忘れた方が楽な時もあるけどね」
ミレアが言うと、リオラは少しだけ笑った。
「違いない」
エイルは、いつのまにか若い竜の囲いの前にしゃがんでいた。
他より一回り小さく、色の淡い竜だった。落ち着きがなく、しきりに体を動かし、時々、低く唸る。
「この子、元気だね」
エイルが言うと、リオラの表情が少し変わった。
「そいつはまだ若い。気が立ってる」
「なんで?」
「雷を嫌うんだ。昨日の嵐から、ずっとああさ」
リオラは若い竜をしばらく見てから、囲いの留め具を確かめた。
「あまり近づくな。今は人にも気を許さない」
エイルは素直に立ち上がった。
日が暮れた。
山の夜は早く、そして深かった。霧が晴れると、空には見たこともない数の星が広がっていた。エイルは竜舎の外で、しばらく動かずに空を見上げていた。首が痛くなるほど顔を上げて、星を見ている。
ミレアも、同じ空を見上げた。
何も言わず、しばらくそうしていた。
その時だった。
竜舎の方で、激しい物音がした。
木の裂ける音。続いて、甲高い鳴き声。
リオラが弾かれたように走り出した。ミレアもすぐに後を追った。
若い竜の囲いの扉が、内側から壊れていた。
そして、竜の姿がなかった。
「逃げた」
リオラの声は鋭かった。
「気が立ってたんだ。畜生、留め具が嵐で緩んでた」
ミレアは周囲を見回した。柵の一部が、谷側へ向かって倒れている。爪の跡が、濡れた土に残っていた。
「谷へ降りたのね」
「斜面を降りた。あの先は足場が悪い。暗い中で降りれば――」
そこで口をつぐんだ。
その先は、ミレアにも分かった。足場が崩れれば、ただでは済まない。
リオラはランプと、長いロープを手にした。
「あたしが追う。あんたらは母屋にいな」
「待って」
ミレアはその腕をつかんだ。
「斜面の地形は頭に入ってるの? 暗い中を一人で降りるのは危険よ」
「ここはあたしの山だ」
「でも、あなたが落ちたら、竜より先にあなたを捜す羽目になる」
リオラが動きを止めた。
ミレアは続けた。
「私、足場の悪い場所には慣れてるの。仕事柄ね。先に私が降りるから、あなたは上から灯りで照らして」
リオラはミレアを見た。値踏みする目だった。さっき、ミレアがリオラの手つきを見たのと同じ目だった。
「……分かった。でも、無理はしないでおくれ。竜より、あんたの命だ」
エイルが前に出た。
「俺も行く」
「だめ。あなたは――」
言いかけて、ミレアは口をつぐんだ。
エイルはもう、斜面の縁にしゃがんでいた。暗がりへ目を凝らし、どこに足を置けるかを確かめている。怖がってはいない。
「ここなら降りられる。崩れてるのは右側だけだ」
ミレアは一瞬、エイルに目をやった。
この暗さで、なぜそこまで見えるのか。なぜ、あんなに身軽に動けるのか。
だが、問い質している時間はなかった。
「……離れずに来なさい。先は私が行く」
「分かった」
斜面は、思った以上に急だった。
ミレアはロープを岩に巻き、ゆっくりと体を下ろしていった。濡れた土が崩れ、小石が谷底へ転がり落ちていく。上では、リオラの掲げるランプが、霧を黄色く染めていた。
エイルは、その後ろをついてきた。
妙な降り方だった。ミレアがロープで慎重に探る足場を、エイルは見もせずに選んでいく。岩のどこが脆いか、最初から知っているような動きだった。
下方の暗がりで、何かが動いた。
甲高い鳴き声。怯えた声だった。
岩棚の下の狭い窪みに、淡い色の竜がうずくまっている。降りたはいいが、その先の足場が崩れ、進むことも戻ることもできなくなったらしい。
ミレアは足を止めた。
「近づきすぎないで。臆病な竜は、追い詰められると暴れるかもしれないわ」
だがエイルは、もう竜のそばまで降りていた。
ミレアが止める間もなかった。
エイルは竜の正面を避け、横から、ゆっくりと身を低くした。竜が威嚇するように首をもたげる。その動きより半拍早く、エイルは手を引いていた。まるで、相手が次にどう動くかを、先に知っているみたいだった。
「大丈夫。怖くないよ」
エイルの声は、静かだった。
竜は、唸るのをやめなかった。それでも、さっきまでのようには暴れない。
上から、リオラの低い声が降りてきた。竜を呼ぶ、決まった調子の声だった。
その声と、すぐそばのエイルの気配に、淡い色の竜は、ゆっくりと身を起こした。
ミレアは、その一部始終を見ていた。
竜は、崩れていない方の岩を選び、エイルに促されるように、一歩ずつ登り始めた。怖がりながらも、戻ろうとしていた。
竜が斜面を登りきると、上で歓声が上がった。続いてエイルが、最後にミレアがロープをたぐって登った。
登りきると、エイルは若い竜のそばに寄り添っていた。竜はもう唸っていなかった。エイルの手の匂いを嗅ぎ、低く、安心したような声で鳴いている。
リオラが竜の体を調べた。
「脚は無事だ。爪が少し欠けてるが、それだけだ」
そして、エイルを見た。
「あんた、竜の扱いがうまいね。初めてとは思えない」
エイルは、自分の手を見た。
「……自分でも、よく分からないんだ」
嬉しそうな、けれど少し戸惑ったような顔をしていた。
暗い斜面での、迷いのない足の運び。竜の動きを先回りするような身のこなし。あれは、覚えて身につくものではない。
けれど、ミレアは何も言わなかった。
若い竜を囲いに戻し、壊れた扉を仮に塞ぐ頃には、夜も更けていた。
リオラは母屋に二人分の寝床を用意した。
「今夜は泊まっていきな。この時間に山を下りるのは危険だ」
「助かります」
ミレアは礼を言った。
暖房器具の前で、エイルはすぐに眠ってしまった。山道と、夜の騒ぎで、疲れていたのだろう。
ミレアはしばらく、眠るエイルを見ていた。
それから、自分も目を閉じた。
夜が明けた。
ミレアが外へ出ると、谷は白い雲で埋まっていた。
山の中腹より下が、すべて雲の下に沈んでいる。尾根だけが、雲の海の上に島のように浮かび、朝の光を受けて淡く輝いていた。
リュミナの海とも、ヴェイルの灰色の空とも違う。
ミレアは、しばらくその景色を見ていた。
何度星を渡っても、新しい星の朝は、少し胸がざわつく。
背後で扉が開き、エイルが出てきた。
雲海を見て、息を呑む。
「……すげぇ」
ミレアは小さく笑った。
「最初はみんな、そう言うのよ」
卵を置いた小屋から、リオラが顔を出した。
「来てごらん」
声に、何かを知らせる響きがあった。
二人が小屋へ入ると、リオラは灰色がかった青の卵の前に立っていた。
卵が、かすかに揺れていた。
そして、殻の内側から、音がした。
こつん。
小さく、確かな音だった。
もう一度。
こつん。
リオラが、静かに言った。
「今日、生まれるね」
エイルは、卵から目を離さなかった。
ミレアは、生まれようとしている荷物を、静かに見つめた。
窓の外では、雲の海が、ゆっくりと朝の光に溶け始めていた。




