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宇宙船《ノクターン号》  作者: ひろゆら
第一章 海の星リュミナ

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第5話 海底の受取人

警告音が低く響き続けていた。

制御室の奥、壁の継ぎ目から、細い水がにじんでいる。

床に落ちた水滴は、古い航路図の光を受けて黒く揺れた。

ガルドは壁の継ぎ目と気圧表示を見比べる。

「まずい。継ぎ目が開き始めてる。このままだと海水が入る」

エイルが息を呑んだ。

「ここ、海の底だよな」

「思い出したくなかったわね」

ミレアは運搬台に固定された黒い箱を見た。

警告音はさらに低く、重くなる。

遠くで、また隔壁が閉じる音がした。

ガルドは制御室の奥へライトを向ける。

「保守通路だ。どこへ繋がってるかは分からん」

ミレアは通路の幅を見た。

人ひとりなら通れる。だが、運搬台を入れるにはぎりぎりだった。

「箱をぶつけないように進むわ」

ミレアは運搬台の固定具を確かめた。

ガルドが先に保守通路へ入る。

ミレアが運搬台を押し、エイルが後ろに続いた。

通路は狭く、暗かった。

足元には浅く水が溜まり、靴底が濡れた床を踏むたびに、小さな音が響く。

壁の白い板はところどころ剥がれ、その下から古い金属の壁が覗いていた。

エイルは、その壁に刻まれた細い溝を見つめる。

「この形……どこかで見たことある」

ミレアは足を止めなかった。

前方で、ガルドの携帯計器が短く鳴った。

彼は表示を確認し、眉を寄せる。

「緊急ビーコンだ」

「巡礼者?」

「違う。観測局の識別信号だ」

ミレアは端末を取り出し、依頼情報と照合した。

表示された識別コードは、受取人のものと一致していた。

主任研究員、イリス・カーヴェル。

エイルが息を呑む。

「受取人……生きてるのか?」

「少なくとも、信号は出ている」

ガルドは通路の奥へライトを向けた。

「この先だ。防水扉の向こうから信号が出てる。出口からは少し外れる」

ミレアは黒い箱を見た。

受取人は、まだこの奥にいるかもしれない。

ミレアは運搬台の取っ手を握り直した。

ガルドは何も言わず、通路の奥へ進む。

三人はさらに奥へ進んだ。

途中で天井から隔壁が降り始めた。

通路を塞ぐように、厚い金属板がゆっくり落ちてくる。

ガルドが先に滑り込む。

ミレアも運搬台を押して続こうとしたが、前輪が床の継ぎ目に引っかかった。

「まずい」

隔壁はもう、ミレアの頭上近くまで降りていた。

その瞬間、エイルが横から飛び込んだ。

彼は運搬台の前輪を持ち上げ、ミレアの腕を引く。

運搬台が継ぎ目を越えた。

ミレアとエイルが通路の向こう側へ転がり込む。

直後、背後で隔壁が閉じ切った。

重い音が、通路全体を震わせる。

エイルは、自分の手を見ていた。

自分でも、今の動きが分かっていない顔だった。

ミレアはその横顔を見て、すぐに視線を外した。

「助かったわ」

それ以上は言わなかった。

防水扉の向こうには、小さな制御室があった。

壁際に古い端末が並び、床には工具や記録媒体が散らばっている。

その奥で、一人の女性が倒れていた。

ガルドが駆け寄り、首元に手を当てる。

「生きてる」

ミレアは運搬台を押して近づいた。

女性は三十代後半から四十代前半くらいに見えた。

乱れた髪を後ろで束ね、観測局の作業服を着ている。

服には海水と油の汚れがあり、腕には応急処置の跡があった。

研究室にいる学者ではない。

海底まで自分で降りてくる人間の顔だった。

女性がゆっくり目を開ける。

「……誰?」

「運び屋よ」

ミレアは黒い箱の固定ベルトを外した。

「海上観測塔・第七観測局、主任研究員イリス・カーヴェル宛て」

女性の目が、黒い箱を捉えた。

かすかに息を呑む。

ミレアは箱に手を添えたまま言った。

「荷物よ。受領サイン、もらえる?」

イリス・カーヴェルは、しばらく黒い箱を見つめていた。

それから、疲れた声で呟く。

「……本当に、届いたのね」

「届けるのが仕事だからね」

イリスは小さく笑った。

「中身が何か、聞かなかったの?」

「聞いたら報酬が減りそうだったから」

「賢明ね」

ガルドがイリスを支える。

「歩けるか」

「少しなら」

「ここはもうもたん」

「分かってる。でも、その前に……箱を端末へ」

ミレアは眉を寄せた。

「今?」

「今しかない。施設が完全に封鎖される前に、読み出さないと」

ガルドが低く言う。

「時間はないぞ」

「数分で済む」

イリスの声は弱かったが、視線だけは鋭かった。

ミレアはイリスを見た。

それから、黒い箱を古い制御端末の前へ置いた。

「開けるの?」

エイルが聞く。

イリスは首を振る。

「開けない。この箱を端末につなげば、残っている記録を読めるわ」

イリスが端末の横に残っていた古い接続器具を、黒い箱の側面に差し込む。

端末に流れていた乱れた波形が、少しずつ整っていく。

画面に、航路図の断片が浮かんだ。

イリスが画面を見つめる。

「この海底施設には古い航路記録が残されていて、第七観測局はそれを調べるために建てられたの」

「海の底に星間航路が?」

エイルが呟く。

イリスはうなずいた。

「理由はまだ分からない。でも、これだけは分かる」

彼女は画面を切り替えた。

黒く消された座標が、いくつも並ぶ。

「この欠落は、自然な劣化じゃない。誰かが、意図的に消している」

ミレアは画面を見つめた。

黒く消された座標のひとつには、見覚えがあった。

完全な座標ではなく、周辺航路も古いため、正確な照合はできない。

それでも、故郷の星へ向かう航路に似ていた。

「……この辺り」

ミレアは、ほとんど声にならない声で言った。

エイルがミレアを見る。

だが、何も聞かなかった。

イリスも、それ以上は踏み込まなかった。

「断定はできない。でも、航路がただ失われたのではなく、記録そのものが消されている可能性がある」

その時、通信機にノイズが走った。

ざらついた音の奥に、低い声が混じる。

『その記録は、開かれるべきではない』

エイルの表情がこわばる。

「白衣の巡礼者……?」

ガルドが計器を見る。

「近い。施設内に入ってきてる」

ミレアは小型拳銃を抜いた。

だが、巡礼者の姿はまだ見えない。

声だけが、古い通路を伝って届いている。

『鍵を渡しなさい。その記録は災いを呼ぶ』

イリスは黒い箱との接続を外した。

「必要な部分は保存した。もう行けます」

黒い箱は、イリスの運搬ケースへ固定された。

それで、荷物は正式に受取人の管理下へ移った。

ミレアの運搬台は空になった。

長く運んできた荷物が、ようやく手を離れた。

「脱出するぞ」

ガルドがイリスを支える。

ミレアは背後を警戒し、エイルはガルドの後ろに続いた。

通路には、もう水が流れ込み始めていた。

遠くで巡礼者の声がする。

近づいている。

ガルドは古い保守通路のハッチを開けた。

「ここを抜ければ、潜水艇の接続口に出るはずだ」

ミレアはうなずいた。

保守通路は狭く、暗かった。

水が足元を流れ、通路全体がわずかに揺れていた。

エイルが先に進み、奥の手動ロックを開ける。

「開いた!」

その声と同時に、背後で隔壁が閉じ始めた。

ミレアはイリスを先に通し、最後に身を滑り込ませた。

直後、隔壁が重い音を立てて閉じる。

白衣の巡礼者の声は、扉の向こうで途切れた。

接続口には、すでに水が入り始めていた。

ガルドが操作盤へ駆け寄る。

「急げ。気密が落ちる」

潜水艇のハッチが開く。

ガルドがイリスを押し込み、エイルが続く。

ミレアは最後に乗り込んだ。

ハッチが閉じる直前、施設の奥から低い振動が伝わってきた。

まるで海底そのものが軋んでいるような音だった。

ガルドが操縦席へ滑り込む。

「離脱する」

潜水艇が接続口から切り離された。

直後、外の区画に海水が流れ込んだ。

窓の外で、白い泡が一気に広がる。

古い施設の照明が、ひとつ、またひとつと消えていった。

潜水艇は暗い海の中を上昇していく。

誰もすぐには話さなかった。

聞こえるのは、船体を叩く水流と、古いエンジンの唸りだけだった。

やがて、窓の外が少しずつ明るくなった。

深い藍色だった海が、青へ変わっていく。

遠くに、第七浮遊港の光が見えた。

エイルが小さく息を吐く。

「戻ってこられた……」

ミレアは背もたれに身体を預けた。

「次から海底配送は割増ね」

ガルドは操縦席で短く笑った。

「請求先は観測局でいい」

イリスは黒い箱の運搬ケースを膝に置き、静かに目を伏せていた。


港へ戻ると、空は夕方の色に変わっていた。

リュミナの海は赤みを帯びた光を返し、遠くの市場からは、また賑やかな声が聞こえてくる。

海底で聞いた警告音が、嘘のようだった。

イリスは観測局の救助班に引き渡された。

応急処置を受けながらも、彼女は黒い箱のケースから手を離さなかった。

ミレアは端末を差し出す。

「受領サイン」

イリスは少し笑い、震える指でサインを入力した。

依頼完了の表示が出る。

続いて、報酬の入金通知。

ミレアはその数字を確認し、ようやく息を吐いた。

「燃料代、払えるわね」

エイルが少し呆れたように見る。

「そこ?」

「大事なところよ」

イリスはミレアを見た。

「ありがとう。あなたたちが来なければ、あの記録は失われていた」

「こっちは荷物を届けただけ」

「それで十分」

ガルドが近くに立っていた。

潜航服は濡れたままで、顔には疲労が見えている。

「第七観測局は、しばらく閉鎖だな」

イリスはうなずく。

「でも、調査は続ける。あの記録を放っておくわけにはいかない」

ミレアは何も言わなかった。

あの消された座標。

故郷の近くに似た航路。

まだ断定はできない。

けれど、忘れられるものでもなかった。

ガルドがミレアを見る。

「船の修理代も請求しておけ」

「請求先は観測局でしょ」

「そうする」

エイルは少し名残惜しそうにガルドを見た。

ガルドは短く言う。

「次に潜る時は、勝手に計器へ触るなよ」

「わかってるよ」

それが別れの挨拶だった。

イリスはリュミナに残る。

ガルドも、この星の海に残る。

ミレアたちは、補給と次の依頼のために港へ戻った。


貨物区画は、少しだけ広く見えた。

黒い箱を固定していた台が、空になっている。

エイルは空になった台を見ていた。

ミレアは何も言わず、固定ベルトを畳んだ。

ブリッジに戻ると、クロードの声が響いた。

『港湾掲示板に、新しい配送依頼が出ています』

ミレアは操縦席に座り、表示を開いた。

行き先は、リュミナの外縁航路にある小さな中継港だった。

目立つ依頼ではない。

けれど、次の行き先には十分だった。

第七浮遊港を離れ、大気圏を抜けると、リュミナの青い海が、窓の外を遠ざかっていった。

《ノクターン号》は、次の航路へ向かう。

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