第3話 沈んだ航路
潜水艇の中は、思っていたよりも狭かった。
三人が乗り込むと、それだけで通路はほとんど塞がった。壁には古い計器と酸素残量の表示板が並び、天井の配管からは低い振動音が伝わってくる。
ミレアは黒い箱を足元の固定台に置き、固定ベルトを一本ずつ締めながら、操縦席に座るガルドを見た。
「これ、本当に戻ってこられる船なの?」
「戻るために整備してある」
「沈むためじゃなくて?」
「沈まない潜水艇は役に立たん」
「……分かった。考えないことにする」
ガルドは振り返らずに、いくつものスイッチを入れていく。
エイルは狭い窓に顔を近づけていた。外では格納スペースの扉が開き、明るい海の光が差し込んでいる。水面の揺らぎが壁に反射して、青い模様を作っていた。
「すげぇ……このまま潜るんだ」
「計器には触るな。窓だけ見てろ」
ガルドが操縦席から言った。
エイルは慌てて両手を引っ込める。
「触ってない」
ミレアが横目で見る。
「触りそうな顔はしてたわね」
エイルは少し不満そうに口を尖らせた。
ガルドが操縦桿を握る。
「出るぞ」
潜水艇がゆっくり動き出した。
格納スペースを抜けると、船体が海へ滑り込んだ。鈍い水音が響き、窓の外いっぱいに青い光が広がる。
港の音が遠ざかっていく。
さっきまで聞こえていた市場のざわめきも、船のエンジン音も、分厚い水の向こうへ沈んでいった。代わりに聞こえるのは、船体を撫でる水流と、古い機械の低い唸りだけだった。
窓の外を、銀色の魚群が横切る。
陽光はまだ明るく、海の中は透き通っていた。
遠くには、海上都市を支える巨大な脚部が何本も海底へ伸びている。その周囲を、作業艇や点検用の小型機がゆっくり行き交っていた。
エイルは目を輝かせる。
「海の中なのに、街みたいだ」
「ここまではな」
ガルドが短く言った。
「第七観測局の海底区画は、こんなに明るくない」
潜水艇は海上都市の影を抜け、さらに沖へ進んだ。
周囲の明るさが、少しずつ失われていく。
青かった海は、深い藍色へ変わった。
窓の外を横切っていた魚の群れも、いつの間にか見えなくなっていた。
ミレアは窓の外を見た。
港の明かりも、海面のきらめきも、もう見えない。
聞こえるのは、潜水艇の低い駆動音と、水流が船体を撫でる音だけだった。
「第七観測局の海底区画には、何があるの?」
ミレアが聞く。
「古い海底施設だ」
ガルドは計器を確認しながら答えた。
「今の観測局が建つ前からあった。表向きは、古い海流観測施設ということになっている」
「言われている?」
「建設当時の資料がほとんど残っていない。誰が造った施設なのかも分からん」
ミレアは窓の外の暗い海を見た。
「そんな場所の上に、よく観測局なんて建てたわね」
「海流を調べるだけなら、もっと浅い場所でいい」
ガルドは短く言った。
「第七観測局は、最初からその古い施設を調べるために建てられたんだろう」
エイルが顔を上げる。
「じゃあ、職員たちは海流じゃなくて、その古い施設を調べてたの?」
「そうだ。最近になって、古い区画の一部が開いたらしい」
「どうやって開いたの?」
「水圧で壊れたのか、誰かが開けたのかは分からん。だがその後、第七観測局は閉鎖され、職員の何人かは戻ってこない」
潜水艇の中が少し静かになった。
ミレアは黒い箱へ視線を落とした。
固定ベルトで押さえられた黒い箱は、何も言わずに沈黙している。表面には、読めない文字のような細い溝が刻まれていた。
この箱が、ただの荷物とは思えなかった。
届け先は閉鎖された第七観測局で、受取人は観測局の海底区画へ入ったきり戻ってこない。
その海底区画は、誰が造ったのかも分からない古い施設とつながっている。
その時、計器の一つが短く鳴った。
ガルドが表示を覗き込む。
「……おかしいな」
「何が?」
「下から信号が来ている。観測局の海底区画より、さらに奥だ」
ガルドは表示を切り替えた。
「箱の近くで拾っている微弱信号と、波形が似ている」
ミレアは黒い箱へ視線を落とした。
「この箱に関係があるってこと?」
「たぶんな」
ガルドは前方の暗い海を見つめた。
「箱と同じ信号を返すものが、この先にある。どちらにしても、ただの観測施設ではないな」
潜水艇はさらに深く沈んでいった。
外の光はほとんど消えた。前方の照明が点き、暗い海を細く照らす。光の中に、小さな浮遊物が雪のように舞っていた。
その先に、海底から突き出す巨大な影があった。
近づくにつれ、岩ではないことが分かってくる。
丸い塔のような建物がいくつも並び、その間を太い通路がつないでいた。
通路の奥で、またノイズが鳴った。
短く、低い信号。
一定の間隔で繰り返される音。
潜水艇の通信機越しに聞いた時より、近くなっている。
ガルドはライトを片手に進み出した。
「この先に第七観測局の海底区画がある。そのさらに奥が、古い施設につながっている」
白い通路は、途中から少しずつ様子を変えていった。
最初は観測局が増設した白いパネルに覆われていた。
だが奥へ進むにつれ、床の継ぎ目は古くなり、壁の表面も剥がれ始める。
剥き出しになった下地には、黒ずんだ古い金属が見えていた。
「ここから先は、観測局の設備じゃない」
ガルドが言った。
エイルは壁に近づき、表面をじっと見た。
壁には細い溝が走っていた。
配線に見える部分もあれば、模様のように見える部分もある。
けれど、どれも装飾ではなさそうだった。
だが、それを確かめる前に、ガルドが足を止めた。
前方の通路に、何かが落ちていた。
小さな携帯端末だった。
外装は濡れていない。
だが、角が割れ、画面には細いひびが入っている。
ガルドが拾い上げ、電源を入れると一瞬だけ画面が明滅した。
そこに、職員用の識別コードが表示される。
ミレアは依頼情報の端末を開き、受取人欄に記された識別コードを確認した。
同じ番号だった。
「……受取人の端末ね」
エイルの表情がこわばる。
「じゃあ、その人はここまで来てたってこと?」
「少なくとも、端末はここにあるわ」
ミレアは通路の奥を見た。
「本人がどこにいるかは、まだ分からないけど……」
端末の画面に、破損したログが残っていた。
ガルドが眉を寄せながら読み上げる。
「深層区画で発信元不明の信号を確認。海流観測用の機器では解析不能」
ガルドはさらに画面を操作した。
携帯端末のスピーカーから、ノイズ混じりの記録音声が流れる。
『……旧区画の奥に、星間航路のデータらしきものを確認。海底施設には、本来存在しないはずの星間座標が記録されています。記録を持ち帰って、照合する必要があります……』
そこで音声は途切れた。
通路に、しばらく沈黙が落ちた。
「星間座標?」
エイルが呟く。
「海底施設なのに?」
ミレアは答えなかった。
海底にあるはずのない、星間航路の記録。
それだけで、この場所がただの観測施設ではないことは分かった。
ガルドが端末をしまう。
「奥へ行くぞ」
白い通路はそこで終わっていた。
その先にある扉は、観測局のものではなかった。
厚い黒い金属で作られ、表面には細かい溝が走っている。
手動レバーも認証パネルもない。
ただ、壁と一体化したように、静かに閉じている。
エイルが息を呑んだ。
「これ、開くのか?」
「分からん」
ガルドが答える。
「だが、計器が拾っている発信元不明の信号は、この向こうから来ている」
ミレアが運搬台を扉の近くへ寄せた時、ガルドの携帯計器が短く鳴った。
画面に表示された波形が、先ほどよりも大きくなっている。
「信号が強くなった」
「扉が反応してるの?」
ミレアが聞く。
「いや。反応しているのはもっと奥だ。ただ、荷物を近づけた瞬間に波形が変わった」
黒い扉の奥から、低い作動音が響いた。
金属が軋むような音ではない。
長く止まっていた装置が、順番に目を覚ましていくような音だった。
扉の中央に、細い隙間が走る。
エイルが一歩下がった。
ミレアは運搬台の取っ手を握り直し、開いていく扉を見た。
ガルドはライトを構えたまま、低く言った。
「動くな。中を確認する」
扉が、低い駆動音を立てながら、ゆっくり左右へ開いた。
その向こうには、広い制御室のような空間があった。
床も壁も、今までの通路とは違う。
古い金属の床に、いくつもの細い溝が刻まれている。
奥には、壊れた端末のようなものが並び、その一部だけが弱く点滅していた。
中央には、大きな円形の投影装置があった。
航路図を映すためのものに見える。
だが、普通の星間航路を表示する装置ではなさそうだった。
画面は割れ、投影機の一部も壊れている。
それでも、中央の台にはかすかな表示が残っていた。
ミレアたちは近づいた。
表示されていたのは、海流でも地形でもなかった。
星間航路の断片だった。
けれど、ミレアが知っている航路図とは違う。
線は途中で途切れ、座標のいくつかは黒く塗りつぶされたように欠けている。
エイルが息を呑んだ。
「これ……航路図だ」
ミレアは画面を見つめた。
古い航路。
消された座標。
海底に沈んだ施設の奥に、そんなものが残されている。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
けれど、ただの配送ではないことだけは、もう分かっていた。
黒く塗りつぶされた座標のひとつが、ミレアには妙に気にかかった。
その時、背後で低い駆動音がした。
三人が振り返る。
開いたはずの扉が、ゆっくりと閉まり始めていた。




