02章01話 サインを書く男
貴族街に隣接し、寄生した細菌が繁殖するように出来たスラム街。
光と影が織りなすその街は対都市フェルゼンと呼ばれる。
* * *
スラム街の奥深くに佇む、薄暗い場末の酒場。
店内には安酒のツンとした匂いと、誰かがぶちまけたゲロの酸っぱい臭いが不快に澱んでいた。
「……ここの臭いにも、そろそろ慣れてきたな」
シオンは魔塔を出た後、行くあてもなく街道を彷徨い、貴族街と分断されたこのスラム街へと流れ着いていた。
彼は眉をひそめながら、カウンター越しに一番安い酒を注文すると、下品な笑みを浮かべた男が隣に腰かけてくる。
「どうだった? 占いの館はよ。あのババア 若い男が行くと、熱心に一肌脱いでくれるだろ?」
シオンは、安酒を一気に喉へ流し込んだ。
「……よく分からなかった。ただ、これから向かうべき場所は『汚くて凄惨な場所』らしい……」
「……その様子じゃ、手取り足取り腰取りのご鞭撻は受けてないみたいだな……こんな場所だとババア相手でもありがてぇんだけどな……」
飲みを終えた二人は、グラスを置くと酒場の壁際へと歩を進める。
そこに設置されているのは、油と埃で黒ずんだ古びた掲示板だ。
正規の『冒険者ギルド』では扱えない、足元をみた薄給の仕事、誰もが避ける辛辣な案件、あるいはあからさまな犯罪行為……、いわゆる『裏社会の仕事』が乱雑にピン留めされていた。
ちょうどその時、店員が新しい依頼用紙をパチンと掲示板に刺し、そのまま厨房へ戻っていく。
「おっ……おい見ろよ! 占いの方はこれのことじゃねぇのか!?」
隣の男が指差した紙には、殴り書きのような不揃いの文字が躍っていた。
──【急募】事故現場の清掃依頼
※即日払い・口外厳禁。現場の『遺留物・肉片処理』を含む。
男が引きつった顔で唾を呑み込む。
「うわっ……死亡事故の現場清掃かよ。内容からして、どこぞの殺し合いの跡片付けじゃねぇか……」
だが、シオンはその依頼用紙をじっと見つめ、確信に満ちた目で力強く頷いた。
「間違いない……老婆の言っていた『凄惨な現場』とはこれのことだ。森羅万象の神眼と言う二つ名は伊達じゃないな」
「おいおい、冗談だろ? きな臭さしかねぇぞ! 『危うきには近寄らず』……、それがこのスラム街で生き残る鉄則だろ」
シオンは男の制止を余所に、迷わずその紙を剥ぎ取った。
(俺には絶対に忘れちゃいけない約束がある……だがそれを忘れてしまった……)
胸をはり何の躊躇いもなく言い放つ。
「『虎穴に入らずんば』……ってね。そこに俺の過去があるなら、虎の顎にだって頭を突っ込んでやるさ」
* * *
飛び散った脳髄、撒き散らされた腹わた、足の踏み場もないほどに散乱した肉塊――鼻を突く猛烈な死臭が充満する暗い部屋。
血と不気味な体液が粘りつく壁の前で、一人の男が楽しげにしゃがみ込んでいた。
「ふぅ……これほどの凄まじい惨劇だ。しっかりと存在を主張しておかないとな」
男は指先にねっとりとした赤い血を絡ませると、まるで名画の隅に刻むかのように、丁寧に壁へ文字を滑らせていく。
――『漆黒の断罪者』、と。




