9.嫉妬(1)
眠れぬ夜は、人の心を歪んだ感情で満たしていく。
自室のベッドの上で、ケビンは白み始めた天井を忌々しげに見上げていた。
まぶたの裏にこびりついて離れないのは、昨日、修練のあと側近秘書のセレスから聞かされたあの言葉だ。
『陛下の恋人であられる、エリノア様のお屋敷へ向かわれておられるのです』
「……ちっ」
舌打ちひとつ吐き出す息すら熱を帯びて苦しい。
乱暴に跳ね起き、苛立ちをぶつけるように着替えに取りかかった。
鏡に映る自分の顔は、一晩中葛藤に身を焦がしたせいでひどく目つきが悪い。
(恋人、ねぇ……。あの冷血漢に? 昨夜はさぞかし、愛しいお姫様をその腕に抱きしめて、甘い言葉でも囁いてたわけだ)
服のボタンを留める手が、怒りで微かに震える。
先日の、自分を押し倒し、耳元で甘く囁いてきたあの声、あの温度。あれもすべて、恋人に会えない退屈を紛らわせるための、ただの「暇つぶし」だったというのか。
(笑わせるな……。俺は奴を殺すためにここにいるんだ。あいつが誰を抱こうが、誰と添い寝しようが、俺には関係ねぇ……関係ねぇだろッ!)
ケビンは自らの頬を両手で叩き、胸を焦がす熱い痛みを強引に押し殺そうとする。
だが、否定すればするほど、胸の奥で渦巻く『嫉妬』という醜い感情が、己の存在を主張してやまなかった。
◆◇
その頃、静寂に包まれた朝食のダイニングでは、わずかに張り詰めた空気が漂っていた。
席に着いたレオナルドの傍らで、セレスが音もなく頭を下げ、ごく低い声でささやきかけている。
「……陛下。昨夜の成果はいかがでしたか?」
レオナルドは優雅に珈琲のカップを傾け、小さく息を吐いた。
「……ああ。尻尾を出したよ。紛れ込んだネズミの正体。そして、その背後にある……あらかたの裏付けは取れた。あとはチェックメイトの時を待って……」
「やはり……。エリノア様を『恋人』に仕立て上げたかいがごさいましたね。ですが、公爵令嬢をダミーに使うなど、相変わらず危険な橋をお渡りになる」
「皇帝が夜、忍びで行く理由として『恋人に会いに行く』以上のものはないからな。噂通りに動いてくれたおかげで、敵の網を炙り出せた」
「ええ。ですが……もうこのような危険な真似はお止め下さいよ? 自らが本丸になど……貴方様が……そんな事態になれば、それこそ取り返しがつきません」
「……ふん」
レオナルドが薄く笑みを浮かべた、まさにその時だった。
バァンッ——!!
扉を叩くノックの音すらなく、ダイニングの重厚なドアが乱暴に押し開けられた。
入ってきたのは、絵に描いたような不機嫌さを全身から撒き散らしているケビンだった。
肩を怒らせ、むすっと固く口を結んだまま無作法に歩み寄ってくる。
「……おはようございます」
挨拶とも言えぬ低音で呟き、引きずり込むように椅子へ腰掛けたケビンは、正面に座る男の姿を目にした瞬間、ぴくりと眉を跳ね上げた。
(な……んだよ、その顔……ッ!?)
目の前にいるレオナルドは、いつも以上に色気がダダ漏れになっていた。
薄手のシャツの胸元はわずかに寛げられ、長い前髪が影を落とすその顔には、どこか物怠い「気だるさ」が漂っている。
伏せられた長いまつ毛、微かに青白い肌。
ケビンの脳内で、一瞬で最悪の妄想が弾けた。
(昨夜……あの公爵令嬢と、朝まで愛を深めて寝てねぇから……そんな顔してやがるのか……ッ!?)
胸の奥で、カッと激しい火花が散った。
不快感が爆発し、ケビンはあざ笑うような歪んだ笑みを浮かべると、レオナルドへ言葉を吐き捨てた。
「へぇ……。昨夜は随分と陛下はお忙しかったようですねぇ? 朝からそんなに気だるそうな顔をされちゃって……さぞかし『お楽しみ』になられたんでしょうね?」
嫌味たっぷりに、挑発するようにレオナルドを睨みつける。
自分でも抑えがきかないほど、言葉に刺が混じる。
だが、期待していたような余裕の笑みは返ってこなかった。
レオナルドは珈琲カップをソーサーに置くと、珍しく不快そうに眉をひそめた。
その眼光は、氷のように冷ややかだった。
「……お前には関係のないことだ」
——関係ない。
その一言が、ケビンの導火線に火をつけた。昨夜からのイライラが、一気に最高点へ達する。
「関係ない……!? はっ、よく言うぜ! 夜俺を部屋に誘っておいて、自分は恋人のところへご出陣ですか!? 暇つぶしに遊ばれるこっちの身にもなってみろよッ!」
怒りに任せて立ち上がり、テーブルを叩き割らんばかりに身を乗り出したケビン。
しかし、レオナルドは冷めた瞳でケビンを見上げるだけだった。
「言いたいことは、それだけか?」
「っ……!?」
冷淡すぎる態度。まるで駄目をこねる子供でも見るかのような目つきに、ケビンは呼吸が止まりそうになった。
悔しさと屈辱で視界が真っ赤に染まる。
「——もういい! くそ喰らえだ、朝飯なんて食ってられるかッ!」
旋風のように背を向け、その場を立ち去ろうと踏み出した、まさにその時だった。
カタン……ッ。
背後で、小さな不協和音が響いた。
「……陛下?」
セレスの、引きつったような声。
ケビンは何気なく足を止め、振り返った。
「おい、なんの真似だ……」
言いかけた言葉が、喉の奥で凍りついた。
レオナルドの動きが、完全に止まっていた。
優雅に背もたれに預けられていた身体が、ずるりと力なく傾いていく。
「な……」
見る見るうちに、レオナルドの顔面から血の気が引いていった。
色白な肌が真っ青に変色し、額からはダラダラと脂汗が吹き出している。
唇は紫に鬱血し、息を吐くことすら叶わないように胸が激しく上下していた。
ドサッ——!!
圧倒的な強者であったはずの皇帝が、テーブルの皿を押し分け、崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「陛下——ッ!?」
セレスの悲鳴にも似た叫びがダイニングに響き渡る。
「おい……冗談だろ……? 嘘だろ……!?」
ケビンはその場に金縛りに遭ったように固まった。
目の前で、自分を散々弄び、手も足も出なかったあの怪物が、ピクピクと身体を痙攣させ、青白い顔で動かなくなっている。
「医者だ! すぐに侍医を呼べ!! 早くしろッ!」
セレスが凄まじい緊迫感で廊下の護衛たちに怒声を飛ばす。
静寂だったダイニングが一瞬で戦場のような狂気に包まれた。
ケビンは、自分の手先がガタガタと震えていることに気づいた。
胸を刺すような激痛と、訳のわからない恐怖が、全身を支配していた。




