7.プレゼント
──自室のふかふかなベッドに倒れ込み、ケビンは枕に顔を押し付けながらギリギリと歯を鳴らしていた。
(くそっ、くそがぁぁぁ……! なんなんだあの男は! なんであそこまで手のひらで転がされなきゃならねぇんだ……ッ!)
胸元に残る、あの甘く熱いキスの触感。
シャツを裂かれ、月光の下で露わにされた全身をなぞるような、レオナルドの妖しい瞳。
屈辱と、恐怖と、そして敗北感が胸の奥でドロドロと渦巻き、身体が火照って一向に眠気が訪れない。
結局、一瞬たりとも心を休めることができないまま、窓の外が薄桃色の朝焼けに染まり始めてしまった。
「……最悪だ」
重い頭を抱え、掠れた声で吐き捨てる。
睡眠不足と屈辱感で苛立ちはピークに達していたが、朝食の時間を飛ばすわけにはいかない。
逃げ出したと思われるのだけは、暗殺者としての誇りが許さなかった。
気重な足取りでダイニングの重厚なドアを潜る。
◇
朝日が射し込む爽やかな広間。だが、ケビンの足元だけはまるで泥沼の中を進んでいるかのように重い。
「……おはようございます、コンラッド様」
テーブルの傍らにすっと立ち、澄んだ声で礼をとったのは、レオナルドの側近秘書であるセレス・クロフォードだった。
整った顔立ちに、隙のない執事としての身なり。いつもと変わらぬ冷静沈着な態度だ。
(……待てよ。昨夜のあんなド派手な暗殺騒ぎ……コイツには何も話してねぇのか……?)
ケビンは上目遣いにセレスの様子を探るが、彼から動揺や警戒の気配は微塵も感じられない。
皇帝の私室で刃を交え、服まで切り裂かれたというのに、当の皇帝は自分の一番の配下にすら何も知らせていないというのか?
(どこまで余裕ぶってやがる……! 事故として処理されるどころか、隠蔽すらしてねぇってことかよ)
主席に腰掛け、優雅に紅茶の香りを愉しんでいたレオナルドが、ゆっくりと顔を上げた。
「やあ、おはよう。リトルバニー。夕べはよく眠れたかい?」
昨夜の狂気的な対決など、まるで白昼夢だったかのような穏やかで甘い微笑。
だが、その瞳の奥には、すべてを見透かした猛獣の愉悦がギラリと揺れている。
「……っ、はい……おかげさまで……」
ケビンは引きつりそうになる頬を必死に抑え、健気な少年の仮面を貼り直して向かいの席へついた。
だが、運ばれてきた料理を前にして、ケビンはフォークを動かす手を止めた。
長テーブルの上に並べられていたのは、いつもの上品な朝食メニューではなかった。
香ばしい湯気を立てる焼きたてのスコーン。可愛らしいジャムやクリームの小鉢。
色鮮やかな焼き菓子に、まるで宝箱のように豪奢な塗りの箱へ敷き詰められた最高級のチョコレートやボンボン菓子。
それはまるで、幼い子供の誕生日に贈るような、甘く絢爛豪華なお菓子の山だった。
「……あの、陛下……? これは……」
固まるケビンに対し、レオナルドは優雅にカップを皿へ戻すと、不敵な笑みを深めた。
「昨夜、私をあんなにも楽しませてくれた『お礼』だよ。コンラッド王子殿の好物を今日は揃えさせたのだが……お気に召さなかったかな?」
「〜〜〜〜っ!?」
バカにしている。完全に、子供扱いして弄んでいるのだ。
「昨夜の楽しませてくれたお礼」という含みのある言葉に、ケビンの頭の中で何かがブツリと切れた。
(……あー、そうかい。そういうことかい……っ!)
胸の中で、可愛らしいウサギの仮面がバリバリと音を立てて砕け散った。
ここで弱々しく甘えて見せる必要など、もうどこにもない。昨夜、自ら正体を晒したのだ。
ケビンは鬱陶しそうに舌打ちを漏らすと、フリフリしたドレスシャツの襟元を乱暴に掴み、ボタンを二つ、三つと引きちぎるように外した。胸元を大きく寛げ、荒々しく息を吐き出す。
「……チッ」
そして、フォークも使わず、素手でスコーンを掴むと、口の中へガツガツと力任せに放り込んだ。
モグモグと粗暴に咀嚼し、口の周りに粉を散らしながら、猛烈な勢いで焼き菓子を口の中へ詰め込んでいく。
屈辱と苛立ちを、すべて食べものを噛み砕く力へと変えるかのように。
「コ、コンラッド様……!?」
その豹変ぶりに、側近のセレスが素で目を見開き、絶句した。
つい先刻まで儚げで可憐だった王子が、まるで野良犬のように粗野に食べ物を貪っているのだから当然だ。
だが——レオナルドだけは違った。
驚くどころか、ますます愉しそうに目を細め、頬杖をついてケビンの横暴な姿を愛おしそうに眺めている。
「ふふ……そんなに急いで詰め込まなくても、誰も取りやしないよ。ゆっくり味わって食べたらどうだい? 夜まではまだ、たっぷり時間があるだろう?」
「ぐっ……ゲホッ!?」
喉に詰まりかけたスコーンを押し込みながら、ケビンが鋭い殺意の眼光をレオナルドへ向けた。
レオナルドは薄い唇を妖しく歪め、耳元へ滑り込むような甘く低い声で囁きかける。
「今夜は……どんな趣向で私を楽しませてくれるのかい? リトルバニー」
「……ッ!!」
完全に遊ばれている。
昨夜、あれほど命がけで挑んだ襲撃すら、この男にとっては退屈しのぎの戯れに過ぎなかったのだ。
苛立ちで血が上り、喉の奥がカッと熱くなる。
食事が終わり、皿の上の菓子を粗暴に平らげたケビンは、立ち上がって逃げるようにダイニングを後にしようとした。
その背中に、状況を把握しきれていないセレスが、親切心から声をかけた。
「あの……コンラッド様。本日は大変素晴らしい秋晴れでございます。お部屋に閉じこもっておられるのも体に毒でしょうから……たまにはお庭でも散歩されたらいかがですか?」
「「……ハッ」」
その瞬間。
レオナルドとケビンの口から、全く同時に失笑が漏れた。
思わず吹き出した二人の声が重なり、ダイニングに虚しく響く。
「え……?」
セレスだけが何が起きたのか分からず、綺麗に整えられた眉を困惑に寄せた。
散歩どころか、ケビンはこの城の庭も、裏通路も、果ては警備の死角まで完璧に「探索」し尽くしているのだ。
今さら庭の散歩などを勧められる姿は、二人にとってブラックジョークでしかなかった。
レオナルドはクックと喉を鳴らして笑うと、優雅に立ち上がり、セレスへ向けて言った。
「そうだな、セレス。だが……コンラッド王子殿は、なかなかに『筋のいい剣術使い』のようだからね。庭の鑑賞などより……我が国の騎士団の修練でも見学なさったらどうかな?」
昨夜の暗殺未遂、そして二振りの剣を操ったケビンの立ち回りを揶揄する、確信犯的な一言。
ケビンは背中を向けたまま、ピキリと体を硬直させた。
「おや……左様でございますか。コンラッド様が剣術を……? それは実に素晴らしいお考えですね。騎士たちにとっても良い刺激になりましょう」
何も知らないセレスが、真面目な顔で深く頷いている。
「ッ……ゴホッ! ゴホッ……!!」
あまりの居心地の悪さと怒りで、ケビンは盛大に咳き込んだ。
「あ、い、いえ……結構です……っ! 僕は、その……っ」
「はは、遠慮することはないよ」
逃げ出そうと足早に扉へ向かうケビンの背中に、レオナルドはわざとらしいほど甘く、大人の魅力に満ちた声をかけた。
「ああ、それと……リトルバニー。あいにく本日は私用の付き合いで城を空けることになっていて帰りが遅くなる。今夜は残念だが君の『相手』をしてあげられそうにない。申し訳ないね?」
くすくすと愉しそうに笑う皇帝の声。
(この……クソ皇帝があぁぁぁっ!!)
ケビンは振り返ることもせず、廊下へと飛び出すと、激しい足音を立ててその場から逃げ去った。
残されたダイニング。
一人佇むレオナルドは、ウサギが去った廊下を見つめ、深みのある笑みをたたえていた。
「騎士団の訓練、か……。あのウサギがどんな爪の研ぎ方を見せてくれるか、今から楽しみだな」
大人の余裕と、底知れぬ危険な香りを漂わせながら、レオナルド・オーウェン皇帝は静かにグラスを傾けるのだった。




