6.暗殺計画(2)
月光すら届かぬ漆黒の夜が、白亜の城郭を丸ごと呑み込んでいた。
昼間の華やかさが嘘のように静まり返った廊下を、ケビンは影そのものとなって滑るように進んでいく。
気配を消し、呼吸を殺し、足音どころか服が擦れるかすかな音すら立てない。
(ふん……警備の配置も巡回ルートも完璧に頭に入ってる。問題は……あのドアの向こうだ)
視線の先に佇む、重厚な装飾が施された黒檀の扉。
皇帝の執務室である。
手首の内に隠した薄刃の長剣と、太もものホルダーに忍ばせた毒塗りの短剣。その冷たい鉄の感覚を確かめながら、ケビンは心臓の鼓動が高鳴るのを抑え込めずにいた。
(ハッ……本当に鍵を開けて待っていやがるとはな。誘い受けのつもりか? 舐められたもんだぜ……!)
恐怖ではない。全身の血が激しく沸き立つような、形容しがたい興奮と殺意。
ケビンはノブに手をかけ、滑らかに押し開けた。
——静寂。
部屋の奥、月光が差し込む大きな窓を背にして、豪奢な執務机に腰掛けた男がいた。
レオナルド・オーウェン。
書類から視線も上げず、羽ペンを走らせるその姿は、あまりにも無防備で、そして圧倒的に美しかった。
「来たね、リトルバニー」
低い声が重厚な空間に響く。
次の瞬間、ケビンは地を蹴っていた。
迷いも躊躇もない。一瞬で間合いを詰め、仕込み長剣を一閃する。
銀の閃光がレオナルドの首元を斜めに切り裂く——はずだった。
キンッ——!!
甲高い金属音が夜の執務室に弾けた。
「……っ!?」
首筋に走る、氷のように冷たい刃の感触。
ケビンの長剣がレオナルドの喉元に届くよりコンマ数秒早く、彼の喉先には、どこから取り出されたとも知れぬレオナルドの漆黒の短剣が鋭く突きつけられていたのだ。
剣を完璧に受け止められ、喉元を固定された格好のケビンは、息を呑んで動きを止める。
レオナルドは羽ペンを置くと、緩やかな動作で顔を上げた。
その瞳に宿るのは、絶対的な自信と、獲物を追い詰めた猛獣の余裕。薄い唇が不敵に吊り上がっていた。
「相変わらず粗野だな。もう少しロマンチックな挨拶はできないのかい?」
「……チッ」
完璧な手応えだと思っていた。
だが、最初から読まれていたのだ。
喉元に触れる刃先から、じわりと血が滲むのを感じる。
だが——ケビンの瞳から光は消えなかった。
「……ふ」
「ん?」
「ふは……ハハッ!」
ケビンの唇が、三日月のように歪んだ。
可憐な少年の仮面など微塵もない。そこに現れたのは、底知れぬ狂気を孕んだ本物の殺し屋の笑みだった。
「ひっかかったな、クソ皇帝」
ケビンはあえて自ら一歩踏み込み、長剣をレオナルドに奪わせるように手放した。
レオナルドの意識が一瞬、ケビンの長剣と「勝ち」を確信した手に逸れた——その、わずか数ミリの隙。
ケビンは自らの喉筋を切るかのような鋭い身の翻しでレオナルドの間合いの懐深くまで潜り込むと、太ももから引き抜いたもう一振りの短剣を、レオナルドの喉元へと突き立てていた。
皮膚が一筋切れ、鮮やかな朱色の血が刃を伝う。
「形勢逆転だ。お前の言う通り……油断大敵だな?」
ケビンの喉元にはレオナルドの短剣。レオナルドの喉元にはケビンの毒短剣が光る。
至近距離で互いの息が吹きかかるほどの密着状態。互いの刃が相手の頚動脈を捉えている緊迫した相打ち状態の中、ケビンは狂喜に瞳を輝かせた。
だが、レオナルドの余裕は欠片も崩れなかった。
血が滲む喉元を突きつけられたまま、男は低く甘い声で、耳元に囁くように笑った。
「……ふふ。素晴らしいよ、本当に。だが……残念だったな、リトルバニー」
「なに……っ!?」
次の瞬間、ケビン視界が激しく揺れた。
レオナルドは、ケビンが自分の下半身の動きを制圧するためにロックしていた脚の隙間を見抜き、しなやかかつ強靭な蹴り上げでケビンの支柱を崩したのだ。
「ぐっ……!?」
体重が浮いた刹那、レオナルドの手首が旋風のように返る。
ケビンが突き立てていた短剣の柄を、信じられない力と精度で払いのけ、そのままケビンの身体ごと反転させ、重厚な執務机の上へと押し倒した。
バサバサッと書類が舞い散り、月光の下でケビンの背中が激しく机に叩きつけられる。
「あ……がっ……!?」
肺の空気が強烈に押し出され、視界が明滅する。
間髪入れず、頭上で両手首をひとつの大きな手にまとめて握り潰された。
骨が軋むほどの力で机の上に固定され、完全に身動きを封じられる。
その上に重なるようにして覆いかぶさってきたのは——夜の闇よりも深く、恐ろしいほどに甘い色香を纏った皇帝だった。
乱れた前髪の間から見下ろしてくるレオナルドの顔には、獰猛な肉食獣の愉悦と、息を呑むほど妖艶な微笑みが浮かんでいる。
白檀の甘い香りが、ケビンの呼吸を犯すように充満した。
「本当に……どこまでも私を楽しませてくれる愛しいウサギだ」
鼓膜を優しく撫でるような、低く掠れた甘い声音。
レオナルドはケビンの手首を片手で軽々と押さえつけたまま、もう片方の手で奪い取った短剣の刃先を、ケビンの白い首筋へとそっと添えた。
「っ……!」
ケビンの背筋に、ゾクッと冷たい寒気が走る。
刃先は肌を傷つけることなく、滑らかな足取りで胸元へ——そして、服の布地へとあてがわれた。
サーッ……。
冷徹で繊細な刃使い。薄い生地が切断され、左右へと無残に開かれていく。
首元から胸元、腹部にかけて、ケビンの白くしなやかな肌が月光の下へ露わになった。
ケビンの鍛え上げられた無駄のない体躯。引き締まった胸板が、激しい乱呼吸に合わせて露骨に上下する。
レオナルドはその光景を愛おしそうに見つめると、ゆっくりと顔を近づけた。
冷たい短剣の刃が肌から離れた直後——そこに触れたのは、熱く湿った唇だった。
「んっ……!?」
露わになった鎖骨のあたりに、そっと、甘く深いキスが落とされる。
肌を焼くような熱量と、吸い上げられるような官能的な触感。
全身の毛穴が跳ね上がり、背徳的な快楽と恐怖が混ざり合った激しい衝動が、ケビンの脳髄を痺れさせた。
狼に喉元を喰い破られるのを待つ、哀れな獲物の心地。屈辱と、恐怖と、抗えない欲望が交錯し、ケビンの青い瞳が激しい乱れを見せる。
レオナルドはゆっくりと顔を上げると、濡れた唇を薄く歪め、妖しく目を細めた。
「続きは、ベッドルームでじっくり楽しむかい? リトルバニー」
それは、拒否権など端から存在しない、甘く残酷な捕獲の宣言。
耳元に吹きかけられた熱い吐息に、ケビンの体が大きく跳ねた。
(くそ……っ、くそがぁぁぁっ……!! 不死身かよ! こいつ毒剣も無意味なのか!)
手首を握り潰す圧倒的な力。全身を縛り付ける大人の色香と絶望的な格の違い。
狂気の暗殺者たるケビンのプライドは完全に打ち砕かれ、ただ一頭の狼に身も心も組み敷かれた哀れなリトルバニーへと成り下がっていた。
このままでは、本当に喰われる——
本能が鳴らす最大の警戒アラートに背中を押され、ケビンは残された全身の筋力を力任せに爆発させた。
「誰が……アンタなんかと……ッ!!」
死に物狂いの力でレオナルドの拘束を強引に振り払うと、身を翻して机の上から転がり落ちる。
破れたシャツを乱暴にかき抱き、拾い上げた短剣を前方に構え直すが——その手は、かすかに震えていた。
レオナルドは追ってこなかった。
ただ優雅に机の縁に腰を掛け、指先で自身の唇を撫でながら、逃げ場を失った獲物を楽しげに見つめているだけだ。
その余裕に満ちた眼光に見つめられるだけで、皮膚が粟立つ。
(ダメだ……今これ以上踏み込んだら、本当に引き返せなくなる……っ!)
屈辱に歯を食いしばり、ケビンは血の滲む唇を噛み締めた。
「今夜は……これくらいにしておいてやる……ッ!」
負け惜しみのような捨て台詞を吐き捨てると、ケビンは開いたままの窓枠へと跳び乗り、逃げるように夜の闇の中へと姿を消した。
◆◇
静まり返った執務室──
舞い散った書類と、月光の中に残された仄かな薔薇の香り。
「ふっ……やはりな。訓練を受けた者の身体だ」
レオナルドは、ウサギが飛び去った闇をじっと見つめ、低く甘い笑い声を夜の空気に溶け込ませるのだった。




