35.決意
大理石の回廊に、整然と並ぶ靴底の音が響いていた。
ケビンは、慣れない上質な衣の袖を握りしめたまま、前を行く男の背中を見つめていた。
深い漆黒の外套をなびかせ、一歩踏み出すごとに圧倒的な圧力を周囲に振りまくシュナイゼル帝国皇帝、レオナルド・オーウェン。
そのすぐ斜め後ろには、相変わらず無表情の中に完璧な礼節を崩さない執政官兼将軍、セレスが控えている。
──冷たい雨の夜から数週間。
ケビンの生活は激変していた。
過酷な剣の修練は毎日続けられていたが、セレスとの本格的な手合わせはまだ先の話だ。
まずは潰れた掌を治し、細身の体に戦うための最低限の筋肉と体力を取り戻すこと。泥にまみれ、息を絶え絶えにしながら木剣を振るう日常の裏で、レオナルドは静かに、しかし容赦なく「動き」始めていた。
◇
「——ここだ」
回廊の突き当たり、重厚な装飾が施された両開きの扉の前でレオナルドが足を止めた。
セレスが静かに前へ出ると、銀の鍵を差し込み、音もなく扉を開け放つ。
室内に足を踏み入れた瞬間、ケビンは息を呑んだ。
広大な室内には、陽光を柔らかく透かす最高級の絹の帳、緻密な刺繍が施された絨毯、そして圧倒的な存在感を放つ豪奢な調度品が整然と並んでいた。
これまでケビンが宛がわれていた宮殿の別棟にある客間とは、スケールも醸し出す空気もまるで違う。
「な……なんだよ、ここ。俺、引っ越すなんて聞いてないぞ?」
呆然と呟くケビンに、レオナルドは優雅な所作で振り返り、静かに視線を向けた。
「今日からここがお前の部屋だ。荷物はすべてセレスに命じて運び込ませてある」
「はぁ!? ちょっと待てよ! 別棟の部屋で十分だったろ! なんでいきなりこんな……」
「ここが皇帝居住区──そして俺の寝所の真隣だからだ」
「……は?」
思考がフリーズしたケビンに、後ろで控えていたセレスが補足するように静かに口を開いた。
「コンラッド様。このお部屋は古来より、シュナイゼル帝国において『皇后』となるお方が賜る特別室でございます」
「こ、皇后ぉ!?」
ケビンの顔が、一瞬で耳まで真っ赤に染まった。驚愕のあまり声を裏返らせるケビンをよそに、レオナルドは微塵も揺らぐことのない静謐な面持ちでケビンを見つめた。
「お前が将軍を目指し、いずれ俺の隣に立つというのなら、それに相応しい場所に置くまでのことだ」
「だからって、いきなり皇后の部屋なんて……! 周りの奴らがなんて言うか……!」
「言いたい者には言わせておけばいい。俺がここに居れと言っているのだ。それ以上に優先される言葉など、この帝国には存在しない」
淡々とした、しかし一切の反論を許さない絶対的な響き。そこには周囲の雑音に惑わされることのない、真の王者の気品と揺るぎない自負が満ちていた。
ケビンの狼狽など最初から意に介さず、レオナルドは当然のこととして背を向けた。
「セレス、行くぞ。政務会議の時間だ」
「御意に」
「あ、おい! レオナルド!」
「お前も来い、ケビン」
足を止めず、レオナルドが静かに命じた。
「……え?」
「言ったはずだ。これからは俺の隣に立つとな。会議中、お前に発言権はない。だが、俺の隣で帝国の政治がどう動いているか、その目に焼き付けろ」
ケビンは息を詰めた。
これまで、帝国の政治や軍政といった核心から、ケビンは完全に遠ざけられてきた。
それはレオナルドが彼を陰謀の渦中から守るための壁であり、同時にケビンを「何も知らされない守られるだけの存在」に繋ぎ止める鎖でもあった。
その鎖が今、レオナルド自身の手によって断ち切られようとしている。
胸の奥がドクンと激しく跳ねた。
ケビンは溢れ出そうになる動揺をぐっと飲み込み、強く頷くと、皇帝の背中を追って歩き出した。
◇◆◇
大きな円卓が設置された大審議の間は、足を踏み入れた瞬間に皮膚がヒリつくほどの緊張感に満ちていた。
並び立つのは、帝国の権力を握る主要な大貴族たちや重臣たち。彼らは皇帝の登場に一斉に頭を下げたが、その直後、レオナルドのすぐ斜め後ろについて歩いてくるケビンの姿を視界に収めた瞬間、室内の空気が凍りついた。
ざわ……と、密やかな、だが確実な悪意を含んだ波紋が広がる。
「……おい、見たか。なぜあの者がここに……」
「別棟から本宮の皇后宮へ移されたというのは真実だったのか」
「臣下でもない、ましてや……亡国ルクシアンの生き残りの小僧ではないか」
「皇帝陛下の『愛玩具』が、どのような顔をして政務の場に顔を出すというのだ」
隠そうともしない蔑視と嘲笑の視線が、針のようにケビンに突き刺さる。
ケビンは拳を強く握りしめ、歯を食いしばった。ここで気圧されたら、レオナルドの顔に泥を塗ることになる。まっすぐに前を見据え、ただ皇帝の背中だけを追った。
上座の玉座に、レオナルドが深々と腰を下ろす。
その右隣にはセレスが立ち、左斜め後ろにはケビンが控える。
貴族たちの中から、大公派に属する老貴族が一歩前へ踏み出してきた。抑えきれない憤怒と異議を込めた声が、静寂を破る。
「——陛下! 差し出がましいようですが、発言をお許しいただきたい!」
レオナルドは肘掛けに肘をつき、静かに視線を老貴族に向けた。
「許す。言ってみろ」
「感謝いたします。……陛下、かの者に皇后宮を与えられたばかりか、このような神聖なる帝国最高政務会議にまで同席させるとは、いささか度が過ぎております! かの者は敵国、ルクシアン王国の生き残り! いかに陛下の寵愛を受けようとも、属国の落とし子をこのような場に配するなど、帝国百年の威信に関わりますぞ!」
その言葉に調子を良くした他の貴族たちからも、同調する声が次々と上がった。
「左様でございます! 皇帝陛下の『お気に入り』として手元に置かれることまでは目をつぶりましょう。しかし、政治に口を挟める位置に置くなど到底……!」
「我が国の血を流して勝ち取った栄光を、敵国の遺物に穢されてたまるか!」
蔑みの言葉が飛び交い、審議の間はケビンに対する非難の渦に包まれた。
ケビンの胸がぎゅっと締め付けられる。敵国の残党、皇帝の愛玩品、落とし子——これまで浴びせられてきた言葉が、冷たい刃となって突き刺さる。自分がここにいることの異物感に、一瞬だけ足元が揺らぎそうになった。
その時だった。
「——黙れ」
音としては、決して大きな声ではなかった。
しかし、その低く静かな一言は、荒れ狂う大空気を一瞬で叩き割り、室内のあらゆる音を完全に殺した。
ドツ、と重い圧力が空間全体を支配する。
会議場にいたすべての貴族たちの身体が、恐怖で凍りついたように硬直した。
レオナルドはゆっくりと身体を起こし、玉座から立ち上がった。
ただそこに立っているだけで、周りの空気がひれ伏すような、絶対的な覇気。冷酷な皇帝の瞳が、発言した貴族たちを見下ろすように射抜く。
「血を流して勝ち取った栄光? 貴様らがか? 笑わせるな。ルクシアン王国は、もはや存在しない」
静かで、揺るぎない声が広い室内に響き渡る。
「あのアザミの咲く大地は今や、我がシュナイゼル帝国の領土だ。そこに生きる者も、死に絶えた者も、すべては我が庭の草木に過ぎん。ルクシアンは、我がシュナイゼル帝国の中で生きている」
貴族たちが息を飲み、言葉を失う。レオナルドの視線が、先ほど声を上げた老貴族へ向いた。
「そして——そこにいるケビン・コンラッドもまた、亡国の遺物などではない」
レオナルドの手が伸び、ケビンの肩を強く、確かな熱をもって抱き寄せるように引き寄せた。
「この者は、我がシュナイゼル帝国の民であり——俺の隣に立つことを許された、唯一の存在だ」
ぞく、とケビンの背筋に熱い衝撃が走った。
「血統だの、過去の因縁だのと、くだらぬ戯言で俺の決定に泥を塗る者がいるならば、今この場で俺に剣を抜け。……できぬのなら、二度とその口でこの者に触れるな」
皇帝の圧倒的な威圧感と説得力。
そこには一切の迷いも、弁明の余地もなかった。短い言葉の中に込められた絶対的な王の威厳が、数百年の歴史を持つ大貴族たちのプライドを容赦なく踏みつぶし、黙らせる。
静まり返る審議の間。
誰も、指一本動かすことすらできない。ただ恐れおののき、皇帝の覇気にひれ伏すしかなかった。
「……セレス。議題を進めろ」
「はっ」
レオナルドは何事もなかったかのように玉座へ戻り、足を組んだ。
ケビンは、すぐ隣にある男の横顔を、震える目で見つめていた。
(……我が帝国民、そして……俺の隣に立つことを許された存在……)
胸の奥から、熱いものがこみ上げて破裂しそうだった。
ただ守られるだけの居候でも、惨めな敗残兵でもない。レオナルドは公の場で、すべての貴族たちの前で、ケビンの存在と尊厳を完璧に証明してみせたのだ。
(あんたは……どこまでカッコいいんだよ……)
握りしめたケビンの拳に、静かに力がこもる。
「愛玩品」と嘲笑った奴らの見ている前で、いつか必ずセレスを超え、本物の「将軍」としてこの男の真隣に立ってみせる。
冷たい侮蔑の視線は、もうケビンを傷つけることはできなかった。ケビンの瞳には、ただ一人、目の前に君臨する絶対的な皇帝の背中だけが、鮮やかに映し出されていた。




