34.新たなる挑戦
朝靄が払いきれない豪奢な寝室に、銀器が触れ合うかすかな音が響いていた。
「……もう熱は完全に下がっているな」
ベッドの縁に腰掛けたレオナルドの指先が、ケビンの額をそっと撫でる。昨夜までの荒い息遣いが嘘のように、熱はすっかり引いていた。
しかし、その瞳には普段の冷酷な皇帝の面影はなく、まるでガラス細工でも扱うかのような過保護な色合いが色濃く残っている。
「おい、レオナルド……スープくらい自分で飲めるって」
匙を口元へ運ぼうとする大柄な体を押し返そうとして、ケビンは苦笑した。
「黙って飲め。昨夜あれほど冷え切ったのだ、身体の芯まで温める必要がある」
強引に口内へ注ぎ込まれる温かな滋味に吐息をこぼしながらも、ケビンは胸の奥を突く熱い衝動を静かに研ぎ澄ませていた。
昨夜、この男が流した涙。「生涯妻を娶ることはない」という、あまりにも重く切ない束縛と愛の告白。
愛されている喜びは、胸が張り裂けそうなほど満ちている。
だが、だからこそ——このまま甘やかされて彼の腕の中に引きこもっているわけにはいかなかった。
「……セレス」
部屋の壁際に静まり返っていた側近へ、ケビンが視線を投げる。完璧な礼容を保ったまま控えるセレスが、わずかに眉をひそめて一歩前へ出た。
「スープを飲み終えた。レオナルド、それにセレス……二人に話がある」
皿をサイドテーブルに置いたケビンの声は低く、硬い。
先刻までの甘やかな空気は一瞬で消え、室内の温度が目に見えて下がった。
レオナルドの甘い瞳が、油断なく細められる。
「話だと? まだ体調が戻ったばかりだ。余計な寝言なら聞き入れんぞ」
「寝言なんかじゃない!」
ケビンは布団を撥ね退け、ベッドの上に力強く膝をついた。まっ直ぐに皇帝の視線を受け止め、一切の揺らぎなく言い放つ。
「俺が昨日、無茶をしてまで修練場で剣を振っていた理由……ただ『近くにいたい』から騎士を目指したんじゃない」
「……何?」
「俺は、あんたの足手まといになりたくないんだ!」
ケビンの胸から絞り出された叫びが、広い室内に鋭く木霊した。
「大公派の奴らは、俺が力も立場もない『ただの居候』だから、あんたを揺さぶる弱点として狙ってくるんだろ!? 今回だってそうだ……俺が無力で、守られるだけの存在だから、あんたに余計な隙を作らせちまう!」
自分の愚かな行動で結局は、レオナルドの背中に隠れるしかなかった悔しさが、爪を立てるようにケビンの内側を苛んでいた。
「騎士団に入って力をつければ、自分の身くらい自分で守れる。そしたら、奴らも軽々と俺を標的にできなくなるはずだ……! あんたの背中を守る楯になりたい。頼むから、俺が強くなることを拒まないでくれ……っ!」
ベッドの端を血が滲むほど固く握りしめ、ケビンは頭を下げた。切実な、命を削るような訴えだった。
だが、返ってきたのは氷を叩き割るような冷徹な一言だった。
「却下だ」
「……なっ!?」
顔を上げたケビンの視界に飛び込んできたのは、怒りで顎を硬く殺気立たせたレオナルドの顔面だった。
「これは元々俺の問題であり、お前には関係ないことだ。今回のこともお前はただの被害者に過ぎない。お前はただ、俺の目の届く場所で守られていればいい」
「関係ないわけないだろ! 守られるだけの存在なんて籠の鳥と同じだろ! それなら死んだ方がマシだ!!」
「誰もそんなこと言ってないだろ! ちゃんとお前の存在を認めていると言ったはずだ。そのことと大公派のことは別だ」
雷鳴のごとき怒号が室内に響き渡り、空気が破裂しそうなほど張り詰める。レオナルドの圧倒的な威圧感がケビンを押し潰そうと襲いかかった。
その壮絶な衝突の合間に、静絶な足音が割り込む。
「——そこまでになさいませ、陛下」
静かだが、鋼のように芯の通った声。セレスだった。
「セレス、失せろ。これは俺たち二人の問題だ」
レオナルドが鋭い殺気を込めて睨みつけるが、セレスは一歩も引かず、完璧な辞儀を保ったまま口を開いた。
「コンラッド様の仰ることは、極めて正論でございます」
「あ?」
レオナルドの顔から皇帝としての仮面が明らかに消えていく。
「何の立場も権限も与えず、ただ手元に囲い続けることこそ、大公派に対する最大の隙。宮廷の狐どもは『皇帝の甘い弱点』として、あらゆる手でコンラッド様を毒牙にかけようとするでしょう。そして——コンラッド様ご自身の尊厳を殺し、ただの飾りに成り下がらせることが、陛下の本望なのですか?」
「セレス!!」
皇帝の激昂にも、セレスの眼鏡の奥の瞳は冷徹なまでに冷静だった。
「騎士団に入れば臣下に下がり、寄宿舎へ移ることになる。そうなれば手元から離れ、主従の壁ができるとお考えでしょう。しかし、今のまま『守るだけ』の選択は、コンラッド様を真の危険に晒し続けることと同義です」
言葉の一刺し一刺しが、レオナルドの胸を的確に穿っていく。
レオナルドは血が滲むほど唇を噛み締め、絶望と葛藤に満ちた目でケビンを見つめた。
ケビンの瞳には、一切の迷いがない。どれほど突っ放されようと、決して折れることのない情熱の火が燃え盛っている。
「……本気なんだな」
沈黙を破ったレオナルドの声は、地底から響くように低かった。
「あんたの隣に立つためなら、どんな地獄でも這い上がってやる」
ケビンの即答を聞き、レオナルドはゆっくりと天を仰ぎ、深く、重い息を吐き出した。冷酷な皇帝の顔が、覚悟を決めた男の顔へと変わる。
「ならば——条件がある」
レオナルドのティブラウンの瞳が、一転して猛獣のような鋭利な光を放った。
「条件……?」
「そうだ。まず第一の試練として……そこにいるセレスの剣から、一本取ってみせろ」
「えっ……セレスから!?」
思わず目を丸くしたケビンに、レオナルドはゆっくりと立ち上がり、ケビンを見下ろすように、絶対的な宣告を突きつけた。
「シュナイゼル帝国において、臣下に下りながらも唯一、宮殿内に私室を構え、皇帝の傍らに留まることを許される特権を持つ存在がある。……分かるか?」
ケビンはハッと息を呑んだ。
「それって……」
「帝国総司令官——すなわち【将軍】だ」
レオナルドの指先が、ケビンの胸元を強く突く。
「俺の盾ではなく、俺の隣に並び立ち、全軍を率いる『将軍』となってみせろ。現将軍であるセレスから一本も取れぬような生半可な覚悟なら、今すぐその足で寄宿舎へ叩き出してやる」
苛烈極まりない高い壁。だが、それはレオナルドが持ち得る最大の愛であり、ケビンを一人前の男として認めた証だった。
ケビンの頬に、熱い笑みが浮かび上がる。
手の中の木剣がなくなったわけじゃない。目指すべき頂が、果てしなく高く打ち立てられただけだ。
「……やってやろうじゃねぇか!! 将軍でも何でもなって、あんたの真隣を奪い取ってやる!!」
「手加減はいたしませんよ、コンラッド様」
セレスが優雅ににっこりと微笑んだ。
──ならばセレスを超えてこい。ケビン。
冷たい雨の夜は過ぎ去り、二人の前には、炎のごとき試練と新たな絆の物語が幕を開けようとしていた。




