33.愚か者
冷たい雨が、修練場の黒い石畳を容赦なく叩きつけていた。空は鉛色に淀み、横殴りの風は吹き付けるたびに肌の感覚を麻痺させるほどに冷たい。
だが、ケビンはその泥濘の中で、ずぶ濡れになりながらも木剣を振るい続けていた。
幾度も身体を打ち据え、裂けた掌から流れ出た血が雨水に溶けて足元を赤く染めていく。
肉体の限界など、とうに超えていた。凍え切った筋肉が悲鳴を上げ、視界は熱と疲労で白く霞み、頭の芯がガンガンと鳴り響いている。
(……動け、もっと……! こんなところで折れてたまるか……っ!)
却下された悔恨と、自分が「守られるだけの無力な存在」だと思い知らされた絶望が、ケビンの内側を狂気的な執念で焼き付けていく。
力ずくでもあの男の隣に這い上がり、その背中を護る盾になると誓ったのだ。ここで止まったら、本当にただの足手まといのまま終わってしまう。そんな結末だけは絶対に許さなかった。
だが、極限まですり減った命の火は、冷たい雨の中で、あまりにも無慈悲に揺らいだ。
「っ……が……」
足元が大きくぐらりと傾く。そして呼吸が肺の奥で詰まり膝から崩れ落ちるように、ケビンは泥まみれの石床へと力なく倒れ込んだ。
握りしめていた木剣が泥の中に転がり、冷たい雨粒が意識の薄れていく少年の顔を容赦なく打ち付ける。
意識が暗い泥の底へと沈み込んでいく中、最後に脳裏を掠めたのは、あの冷徹な皇帝の背中だった――
◇◆◇
同じ頃、皇帝執務室の窓を激しく叩く雨音の中、重厚な扉が荒々しく開け放たれた。
「――陛下っ!」
息を切らせて飛び込んできたのはセレスだった。
その完璧に整えられた衣服は濡れ、切迫した表情には隠しきれない動揺が色濃く滲んでいる。
「何事だ、セレス」
「修練場で……コンラッド様が倒れられました! 限界を超えて剣を振り続け、冷たい雨に打たれたショックで高熱を出し、現在意識を失っております……っ!」
ガタッ、とマホガニーの机が激しく軋んだ。
レオナルドの顔から、血の気が一瞬にして引き去る。
冷酷な皇帝の仮面など音を立てて砕け散り、その瞳に宿ったのは、胸の奥を激しく引き裂かれるような凄まじい動揺した顔であった。
言葉を発する間もなく、レオナルドは執務室を飛び出した。
長い回廊を駆け抜け、ケビンの眠る寝室の扉を蹴破るようにして押し入る。
ちょうどその時、ベッドの傍らで医療具をまとめていた専属医が、青ざめた顔で一礼して部屋を下がっていくところだった。
「陛下……熱が高うございます。お気を……」
「下がれ」
一喝して医師を追い払うと、レオナルドは足音も荒くベッドの脇へと歩み寄った。
そこに横たわっていたのは、顔色を真っ青にし、荒い息を繰り返すケビンの姿だった。
全身が熱に浮かされ、泥と血に汚れた衣服のまま眠るその細い身体は、まるで少しの衝撃で壊れてしまいそうなほど儚かった。
震える大きな手が、ケビンの冷え切った冷たい手をしっかりと包み込むように握りしめる。
「……馬鹿野郎が……!」
低く唸るような、絞り出すような怒鳴り声。だが、その声の震えは、怒りなどではなく、二度と目覚めないのではないかという絶望的な恐怖からくるものだった。
その怒号に導かれるように、ケビンの長い睫毛が微かに、ひくついた。
「っ……ん……」
うわ言のように息を漏らし、ケビンがゆっくりと瞼を開ける。目の前に映ったのは、普段の冷徹な皇帝の顔ではなく、必死に現実を繋ぎ止めようとする男の顔だった。
「……え……?」
夢うつつな意識の中で、ケビンは我が目を疑った。
信じられないものを見る目でレオナルドを見上げるケビンの頬を、ぽとりと、温かな水滴が伝い落ちた。
「……は……? うそだろ……お前が、泣いて……?」
ケビンの喉からかすれた声が漏れる。絶対的な強者として君臨し、どんな修羅場でも冷徹な笑みを崩さなかった男が、自分のために涙を流している。
その信じられない光景に、胸の奥が激しく波立った。
思考が追いつかないケビンの手を、レオナルドはさらに強く、骨が軋むほどに握り返す。
「お前は……本当に馬鹿なのか……!」
吐き捨てるような、だが切なさに満ちたその言葉に、ケビンはかすかに唇の端を持ち上げ、ふっと自嘲気味に笑った。
「なんだよ……病人に向かって……馬鹿とは……ひどい言い草だな……」
「死ぬ気か、お前は……!」
「……だって……仕方が、ないだろ……」
掠れた声で反論しながらも、ケビンの胸の奥で、じわりと熱いものが広がっていく。
拒絶されたはずなのに。あんなに冷たく突き放されたのに。この男は今、これほどまでに自分を求めて怯えている。
「俺がどれだけ心配したと思っているんだ……二度とそんな無茶をするな」
必死に感情を押し隠そうとしながらも、わずかに震える声で本音をこぼすレオナルドに、ケビンはすこしふてくされたような、それでいてどこか甘えたような目を向けた。
「どうせ俺が力不足で、騎士団じゃやっていけないって、入隊を却下したくせに……。役立たずの足手まといなら、勝手に倒れようがどうでもいいんだろ」
「お前は、本当に……どこまで馬鹿なんだ」
「馬鹿とはなんだよっ!」
いつもの調子に戻りかけたケビンがムキになって言い返すと、レオナルドは深い絶望と呆れが入り混じった息を吐き出し、それから、低く、逃げ場のない真実を落とした。
「騎士団に入隊するってことは、どういう意味かわかっているのか?」
「わかってるよ! わかった上での決断だ! それなら……少しでもお前の側にいられると思ったから……!」
声を荒らげたケビンの瞳から、悔し涙がぽろりとこぼれ落ちる。
それを聞いたレオナルドの瞳が、痛ましげに大きく揺らいだ。
「馬鹿だな、本当に……お前は何もわかっていない」
「だから何がだよっ! 馬鹿馬鹿言うな!」
「臣下に下るってことは、この宮殿から出て行くということだぞ」
――は?
ケビンは、怒鳴りかけていた声をぴたりと止めた。思考が完全に停止する。
「……は……?」
「帝国軍の騎士のうち、独身者は全員騎士団寮で衣食住を共にするのが決まりだ。お前が入団すれば、当然、俺の執務室から離れ、専用の寄宿舎へ移ることになる。……俺の側を離れて、別の場所で暮らすことになるんだぞ」
呆然とした顔で、ケビンはレオナルドを見上げた。
頭の中で、先ほどの言葉が繰り返えされる。騎士団に入るということは、皇帝の側を離れ、専用の寮へ出て行くということ。つまり――
「え……それって、つまり……?」
ケビンの頬の赤みが、熱のせいだけでなく別の理由でみるみるうちに染まっていく。
半ば驚き、半ばからかうような光を瞳に宿し、ケビンはわずかに口角を上げた。
「俺が出て行くのが、そんなにいやだったわけ? ねぇ……寂しかったの、陛下?」
「……馬鹿か」
言葉とは裏腹に、レオナルドはわずかに顔を背けた。その耳たぶがうっすらと赤く染まっていることに、ケビンは見逃さなかった。
冷酷な狼が、こんな不器用な理由で自分を遠ざけていたなんて。
「いいから、病人はさっさと寝ろ」
そう言って、レオナルドが椅子から立ち上がろうと身を引いた瞬間、ケビンは震える手を伸ばし、彼の上着の裾を力強く掴み直した。
「嫌だ……」
掠れた声だが、そこには強い意志が宿っていた。ケビンは潤んだ瞳で、まっすぐにレオナルドを見据える。
「側にいたいんだよ……。ずっと、あんたの側に。何でそれがダメなんだよ……っ!」
泣きそうになりながら絞り出された本音に、レオナルドの体がぴくりと強ばった。
これ以上、この少年の心を傷つけたくない。だが、危険から守らなければならないという呪縛が、常にレオナルドを縛り付けていた。
「馬鹿だな、本当にお前は……」
レオナルドはゆっくりとベッドへ向き直り、再び座り込むと、ケビンの濡れた前髪を優しく、愛おしそうに指先で払い除けた。
「側にいるために、お前を臣下に下ろすことなど、認めないと言っているのだ」
「……は……?」
不思議そうに、ケビンが丸い目をパチクリとさせる。
そんな愛おしい姿を瞳に焼き付けながら、レオナルドは低く、しかし誰にも揺るがせない絶対的な誓いの言葉を落とした。
「――俺は、生涯妻を娶ることはない。そのかわりお前が、俺の側を離れることは絶対に許さない。いいな?」
その言葉の意味を理解した瞬間、ケビンの瞳から堰を切ったように大粒の涙があふれ出した。
臣下ではなく、ただの側近でもなく、皇帝の隣という、誰にも奪えない唯一無二の場所。
自分を愛しているからこそ、危険な表舞台から遠ざけ、手元に置こうとしてくれた男の不器用なまでの独占欲と、深すぎる愛にケビンは胸がしめつけられる。
「……っ、ずるい……よ……」
嗚咽交じりの声で呟きながら、ケビンは起き上がるのも忘れて、レオナルドの腕にしがみつくように身を投げ出した。
レオナルドは迷うことなくその身体をしっかりと抱き寄せ、冷え切った背中に大きな腕を回して強く、壊れないように包み込む。
「泣くな、リトルバニー」
「泣いてない……っ、ばか……」
震える声で悪態をつきながらも、ケビンはレオナルドの胸元に顔を埋め、その温もりを貪るようにしがみついた。
冷たい雨音はまだ外で激しく響いていたが、二人の間には、もう迷いもすれ違いも存在しない。
ただ互いを求める熱だけが、冷めない夜の底へと静かに溶け込んでいくのだった――




