32.狂詩曲
冷え切った一室に、重苦しい沈黙が落ちていた。
「――コンラッド様」
静かに扉を叩いて入ってきたのは、皇帝秘書官にして黒の騎士団長であるセレスだった。その端正な顔立ちには、いつもの柔らかな笑みなど微塵もなく、隠しきれない痛切な影が深く刻まれている。
ベッドの端に腰掛け、窓の外の灰色の空を見つめていたケビンは、ゆっくりと視線を向けた。嫌な予感が、背筋を氷のように這い上がる。
「……何の用だ、セレス」
「陛下より正式に下された御命をお伝えに参りました」
セレスは一礼し、しかし残酷なまでの事実を告げるように、まっすぐにケビンを見据えた。
「あなたが提出された黒の騎士団への入隊志願書は……皇帝陛下の御命により、本日却下されました」
――瞬間、世界の音が消えた。
「……なっ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃が、ケビンの思考を白く白濁させる。
却下された。それも、一介の士官や団長の裁量ではなく、他ならぬ皇帝レオナルド自身の「御命」として、一蹴されたのだ。
「……ふっ、そうかよ」
血の気が引いた顔のまま、ケビンは乾いた笑いを漏らした。だが、その唇は微かに、そして激しく震えていた。
本気だった。自分は、命を懸けてあの男の盾になると、本気で誓っていた。
『男の身でありながら皇帝の傍に侍ている者』という侮蔑を跳ね返し、臣下として堂々とその背中を護るために、自らの誇りも過去もすべて差し出す覚悟で志願書を出したのだ。
それなのに――
「理由は何だ。俺が敵国の人間だからか? それとも、騎士を務めるだけの力量すらない、役立たずの道化だとでもあの男は思ったのか……!」
絞り出すようなケビンの声には、怒りと、それを遥かに凌駕する絶望的なまでの痛みが滲んでいた。
セレスは痛ましげに目を伏せ、しかし主君の代わりとして、その言葉を飲み込むように小さく息を吐いた。
「……陛下からは、ただ『却下する』とのみ。それ以上の言葉はございません」
「それだけ……か」
力が抜け落ちたように、ケビンはその場で俯いた。
頭の中で、冷酷な現実が残酷に組み上がっていく。
自分はあの男にとって何なのだ。夜のベッドで甘い言葉を囁き合い、狂おしいほどの熱を交わしたところで、いざ表舞台に立とうとすれば、こうして一瞬で冷たく切り捨てられる。
男である自分が、シュナイゼル帝国の玉座の隣に立つ「妃」になれるわけがない。いつの日か、帝国の血統を繋ぐための気高い貴族の娘が、あの冷酷な皇帝の傍らに迎えられる日が来るのだろう。
その時、自分はどうなる? 夜の遊戯が終われば捨てられる、ただの日陰の存在か。あるいは、戦場に連れて行くことすらできない、かよわい足手まといの愛玩動物か?
想像するだけで、心臓を鷲掴みにされるような激しい嫌悪と恐怖が込み上げた。
嫌だ。そんな結末のために、あの男の腕に抱かれたわけじゃない。
誰かに守られ、背後で震えているだけの存在になど、なりたくなかった。あいつの隣に立ちたい。同じ目線で、同じ血を浴び、敵の刃からその背中を護る盾になりたい。そのために剣を執り、這い上がろうとしたのに……。
「……力がないからか。俺が、弱いからか……っ!」
自嘲混じりの掠れた声が、冷たい部屋に虚しく吸い込まれていく。
レオナルドが自分を拒絶したのは、自分が信用されていないからだ。戦う力を持たず、守ってやらなければすぐに折れてしまう壊れ物だと、そう見なされているからだ。
無力な自分への怒りと、そんな自分を子供扱いして切り捨てるあの男への理不尽な苛立ちが、ケビンの胸をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
◆◇◆
翌日──
ケビンは誰の制止も聞き入れず、皇城の修練場に立っていた。
乾いた砂塵を巻き上げ、冷たい石床に木剣が打ち据えられる。鈍い衝撃が手首から肘へと突き抜け、痺れるような痛みが走ったが、ケビンはその手を緩めなかった。
何度打ち込んでも、胸の奥底で沸騰するようなドス黒い焦燥と屈辱感は消えない。
「……っ、ふっ!」
木剣を握りしめる掌から、裂けた皮膚を伝って鮮血がぽたぽたと言葉もなく砂地に落ちる。だが、今のケビンにとって肉体の痛みなどどうでもよかった。痛みすら感じられないほどに、自分の魂が削り取られるようなこの胸の苦しみを忘れたかったのだ。
――分かっている。今の自分が無力なのは。それでも、あいつの背中を護る盾になりたかった。守られるだけの存在で終わりたくなどなかった。
「認めてたまるか……。お前たちの都合のいい人形になど、絶対になってやるものか……!」
唇を血が滲むほどに噛み締め、ケビンは再び低く身構えて木剣を突き出した。
怒りと焦燥が、思考を黒く塗りつぶしていく。どんなに拒絶されようと、どんなに冷たく突き放されようと、力ずくでもあの男の隣に這い上がってやる――
折れることのない狂気的なまでの執念が、傷だらけの少年の背中を冷たく、そして美しく突き動かしていた。
◆◇
同じ頃、皇帝執務室。
分厚い大理石の机に向かうレオナルドの眼前に、山積みの機密文書が広がっていたが、その双眸は一文字も捉えていなかった。
「――陛下」
影のように控えていたセレスが、重い沈黙を切り裂くように低い声を落とした。
「コンラッド様は今も修練場にこもりきりでございます。周囲の制止も聞かずに剣を振り続け、その肉体も精神も限界に達している……あれをこのまま放置するおつもりですか」
ペンを握るレオナルドの指に、わずかに力が篭もりマホガニーの机が微かに軋んだ。
「放っておけと、言ったはずだ」
落ちてきたのは氷のように冷徹な一言だけだった。
だが、セレスは主君が仮面の裏で血を流している真実を、誰よりも知っているからこそ食い下がる。
「あれほどのお方を無謀な訓練で追い詰め、ただ『却下した』と切り捨てるだけで、真意が伝わるとでも? あのお方はご自身の無力を嘆き、あなた様の盾になりたいと本気で命を懸けておられた。それを冷酷に踏みにじれば、あのお方は――」
「分かっている」
遮るような低い声が、執務室の空気を凍りつかせた。
レオナルドがゆっくりと顔を上げる。その隻眼に浮かんでいたのは、冷酷な皇帝の仮面ではなく、すべてを焼き尽くすような狂おしいまでの焦燥と恐怖だった。
「これ以上、あいつを危険に晒すわけにはいかない。大公派の残党どもはまだ息を潜めている。グラントが消えようとも、俺の首を狙う最大の脅威は未だにこの帝国の影に潜んでいるのだ」
立ち上がったレオナルドの身体から凄まじい威圧感が放たれる。
「そんな血塗られた権力闘争の只中に、ケビンとの関係を公表すること、あるいは臣下として表舞台に引きずり出すことが何を意味するか……奴らの最大の標的となるのは目に見えている。あいつに俺と同じ人生を歩ませるわけにはいかないのだ」
セレスは息を呑んだ。
冷酷な独裁者の仮面の裏側で、レオナルドがどれほど強烈な破滅的執着と恐怖に囚われているか。自身が幼少期から体験してきた悪夢のような日々。愛する者にだけは同じ思いをさせたくないと強く願う思い……。
「嫌われようと、化け物と呪われようと構わない。あいつが俺を憎み続けようと……生きてさえいてくれるなら、この身が地獄に落ちようと俺は何とも思わない」
冷たい月の光が容赦なく石造りの回廊を照らす中、交わらないはずの狂気と執着が、さらなる血と嵐の夜を呼び寄せようとしていた――




