31.反抗期
朝日すら届かぬかと錯覚するほど冷えた宮殿の最奥では、冷ややかな光を放つシャンデリアの下、磨き上げられた大理石のテーブルに二人の男がいつもと変わらず向かい合っていた。
だが──
カチャカチャと銀のナイフが磁器を叩く無機質な音だけが、息を潜めた空間に響いている。
湯気を立てる極上の料理が並んでいるというのに、そこに通い合う熱はどこにも存在しなかった。
「……ケビン。パンが冷めているぞ」
その声は、いつも通り穏やかだった。
昨夜、激しく手を跳ね除けられたことへの咎めも、微かな怒りすら含ませない。まるで何事もなかったかのように、大人の余裕で包み込もうとしてくる。
「別に。……お腹が空いてないだけだ」
ケビンは皿から一度も目を上げず、小さく短く突っぱねた。
手に握りしめたフォークの柄が、指の圧力でギチギチと軋む。
(なんで……なんでそんなに普通にしてられるんだよ)
胸の奥や身体中がヒリつくように痛かった。
昨夜、自分は皇帝であるこの男の手を、本気で叩き払ったのだ。
叩いた瞬間に見た息をのむ顔と、二人の間に生まれた冷たい亀裂が、脳裏に焼き付いて離れない。罪悪感と恐怖で一晩中苛まれ続けた。
それなのに、目の前の男は何事もなかったかのように優しく声をかけてくる。
自分ばかりが感情を乱し、一人で勝手に苦しんでいるような心地がして、喉の奥が熱く引き攣った。
壁際に控えるセレスは、呼吸すら潜めてその光景を見つめていた。
手袋を嵌めた両手を静かに組み、胸の奥で重い溜息をつく。
(……相変わらず、不器用すぎるお二人だ)
互いを想う熱量があまりにも深すぎるがゆえに、触れ合うたびにすれ違い、互いの肌を切り裂いていく。
その痛々しい朝のひと時を、セレスはただ祈るような心地で見守るしかなかった。
「そうか。無理に食べる必要はない」
優雅にナプキンで口元を拭うと、男は静かに立ち上がった。
一度も視線を交わさぬまま去っていくその背中を、ケビンはただじっと、溢れそうになる何かを堪えるように見つめていた。
◇◆
それから数時間後。
午前中の猛烈な剣技訓練を終えたケビンは、汗を拭いもせず、騎士団の団長室へと足を運んでいた。
荒い息を吐き出しながら、胸の中に固めた決意を抱きしめる。
(守られるだけの存在でいるのは嫌だ。俺は……あいつの側にいたいんだ)
男である自分は、あいつの「妃」にはなれない。世間や貴族どもからは嘲笑われ、陰で蔑まれ続ける。
ならば、答えは一つしかなかった。
「黒の騎士団に正式に入団させてほしい。志願書を受け取ってくれ」
ケビンの眼差しには、一切の迷いがなかった。
(騎士になれば、臣下として堂々と背中を守れる。守られてばかりじゃなく、いつか俺が命をかけてあいつの盾になってみせる……!)
それは、不器用な少年が絞り出した唯一の「愛し方」だった。
◇◆
──バタン!!
ノックの音すらなく、重厚な扉が勢いよく開かれた。
皇帝の執務室に息を切らせて入ってきたセレスの表情には、いつもの温和な笑みは消え失せていた。
「……陛下、大変でございます!!」
ペンを止めた主君が、ゆっくりと顔を上げる。
「騒々しいぞ、セレス」
「コンラッド様が……先ほど、黒の騎士団への正式入団志願書を提出されました。明日の選抜試験に出ると」
部屋の空気が、一瞬で氷点下に凍りついた。
男の顔から、すべての熱が引き破られていく。
「破り捨てろ。志願は却下だ」
顔色一つ変えず、一切の迷いなく感情を削ぎ落とした、あまりにも冷酷な一言。
だが、セレスは引き下がらなかった。まっすぐに主君の目の前まで歩み寄っていく。
「陛下、コンラッド様の目をご覧になりましたか。あの方は本気です。ご自身が『守られるだけの存在』であることに傷つき、貴方様の盾になりたいと……命を投じる覚悟で、その一筋の道を掴もうとされているのですよ!」
「だからこそ却下だと言っている」
立ち上がったその全身から放たれる圧迫感に、部屋の空気が軋む。
「あの者を騎士団に入れることなど、絶対に許さん」
「……臣下に下ろしたくないからですか?」
セレスの声が響いた。
主君の眉根がピクリと動く。セレスは怯まず言葉を重ねた。
「陛下にとってコンラッド様は、部下や臣下などではなく、己と対等な……生涯でただ一人の『妃』と同義のお方だと! 主従の契りを結べば、二人の間に永遠の上下関係ができてしまう。だからこそ、騎士にはしたくないのでしょう! ならば、何故ちゃんと伝えてあげぬのですか!」
胸を焦がすような思いで訴えた。
二人の深い愛も、切実な情熱も知っているからこそ歯がゆかった。
そのままセレスは主君を真っ直ぐ見ながら続けた。
「その想いを隠し、ただ突っぱねるだけでは、コンラッド様の心は壊れてしまいます! あの方は貴方様を守りたい一心なのです!」
──沈黙が落ちた。
男は窓の外を見つめたまま、微動だにしない。
だが、その眼差しは暗く深い痛みに揺れていた。
「……臣下になど」
低く、掠れた声がこぼれ落ちる。
「あの者は、どんな手段を使ってでも絶対に守る。臣下として膝を折らせることなど許さぬ」
どれほど嫌われようと構わない。
周りに何と噂されようが、ケビンが危険に晒されるようなことは絶対に避けなければならないのだ。
「ケビンには『皇帝の命により却下した』とだけ伝えろ」
「……っ」
セレスは固く唇を噛み締め、深く頭を下げ足早に部屋をあとにしたが、その気持ちは複雑であった。
主君の不器用で、あまりにも深すぎる愛の残酷さに胸を痛めながら……。
◇
一人残された広大な部屋。
男は静かに拳を握りしめ、窓ガラスに映る自分の冷たい影を見つめていた。
「いったい何がしたいのだ。反抗期か……」
守りたいからこそ、拒絶する。
側にいたいからこそ、遠ざける。
互いを深く愛すれば愛するほど、二人の想いはすれ違い、二人の間に冷たく深い川となって流れていくのだった。




