30.すれ違う想い
シャンデリアの冷たい光が、磨き抜かれた白大理石の床を滑るように照らし出していた。
宮殿の西翼、誰も通らないはずの重厚な回廊の陰から、潜り込むような足音が聞こえる。闇に溶けるように立ち話をする貴族たちの声は、夜の静寂の中で異様なほど鮮明に響いていた。
「――聞いたか? あのルクシアンの第一王子さ」
「まさか皇帝陛下が、あんな危険な代物を手元に囲い込んでいるとはな。国を滅ぼされた恨みなど、いつ牙を剥くか分かったものじゃないぞ」
「所詮は男の身でありながら、陛下の寵愛を笠に着ているだけの下衆よ。未だ奥深くに隠されているのが、なによりの証拠だ。陛下が正式に妃様を迎えられたら、あのような男など即座に捨てられるのが見えてるわ。ハハハッ」
すれ違いざまに投げつけられた冷ややかな嘲笑は、確信犯的にケビンの耳をかすめた。
――知っていた。
自分がこの宮殿の中で、どのような目で総括され、いかに危うい存在として扱われているかなど、見え透いていた。
ケビンはぐっと奥歯を噛み締め、両手を固く握りしめる。
首筋や胸の皮膚の裏側には昨夜も、あの男が刻み込んだ熱の痕がまだ微かに疼いているというのに、胸の奥底は氷水に浸されたように冷え切っていた。
(隠されている……?)
──許せなかった。
わかっている。全土を恐怖で統べる冷徹な皇帝。その傍らに立つには、自分の存在は不都合で、あまりにも異物な存在であることは。
でも「隠されている」その言葉にケビンは震えた。
敵対する大公派が目を光らせる中、表に出れば自分がどうなるかなど、少し考えれば分かる。
だからこそ彼は自分を誰の目にも触れない場所に縛り付けている――頭では、その理由が嫌というほど理解できいる。
だが、わかっていても喉の奥が焼けるように熱い。
このまま一生、誰の目にも触れぬ「愛玩の影」として生き続けるのか。
いつかこの国に本当の皇妃でも迎えられたとき、自分はどこへ追いやられるのか。そんな不条理な恐怖と焦燥が、青く未熟なケビンの心を黒く染め上げていく。
◇◆
重厚なドアをノックする音すら省き、ケビンは勢いよく私室の扉を押し開けた。
広大な部屋の奥、執務机に向かっていた男が、わずかに気配を察して顔を上げる。
光を湛えた茶髪の隙間から覗く、冷ややかなまでに澄んだ茶色の瞳が、まっすぐにケビンをとらえた。
「戻ったか、ケビン」
政務に追われていたはずの厳格な空気が、ケビンを見た瞬間にわずかに緩んだ。
立ち上がったレオナルドがゆっくり歩み寄り、その大きな手を伸ばしてきた。冷え切ったケビンの頬に触れ、温めようとするかのように指先が這う。
「どこをほっつき歩いていた。……少し、外の風に当たってきたかのような冷たさだな」
いつもの彼なら、その温度だけで胸の奥が溶かされてしまうというのに、今のケビンにはそれが耐え難いほどの侮辱に感じられた。
「……触るなよ」
パチン、と鋭い音を立てて、ケビンはその手を激しく払い除けた。
広大な室内に、気まずい静寂が落ちる。
レオナルドの指が宙でピタリと止まった。
そこに浮かんでいた柔らかな光が嘘のように消え失せ、包み込むような眼差しが一瞬細められた。
「……なんだ、その態度は」
「そのままの意味だ!」
引き下がるどころか、ケビンは全身の産毛を逆立てるように叫んだ。
胸の内で渦巻く不安と怒りが、理性のブレーキを完全に焼き切っていく。
「いつまでここに閉じ込めておくつもりだ! 外を歩けば、貴族どもが陰で俺は『陛下の隠し玩具』で、お前が正妻を娶れば俺なんか直ぐに捨てると専ら噂だ!」
レオナルドの眉間に、わずかに険しいシワが刻まれた。だが、その声のトーンはどこまでも冷ややかだった。
「何を言い出すかと思えば、くだらない」
低く響いた声には、怒りも、焦りもなかった。
執務机の端に片手を掛けたまま、レオナルドは微かに唇の端を持ち上げる。
それは怒鳴り散らすケビンの姿をどこか冷ややかに、それでいて子どもが駄駄をこねているのを見守るような、底知れぬ余裕を孕んだ嘲笑だった。
「……は?」
魂を削るような思いで吐き出した言葉を、そんな風にあしらわれたケビンの息が止まる。
「捨てる? 誰が誰をだ。噂話など馬鹿馬鹿しい」
ケビンの抱いた不安そのものが、冷徹な皇帝にとってあまりにも滑稽で、考慮に値しないものとして切り捨てられたのだ。
それが、たまらなく悔しかった。
真剣に、胸を引き裂かれる思いでぶつけた感情を、まるで虫けらのように軽く扱われた怒りと絶望が、ケビンの頭を真っ白に染め上げた。
「っふざけるな……!」
ケビンが拳を握り締めたその時、レオナルドが長い足を進めて歩み寄ってきた。
そして、ケビンの頭上に大きな手を伸ばす。
まるで、怯える獣を宥めるかのように、あるいは癇癪を起こした子供をあやすかのごとく、その優しい笑みを湛えた指先がケビンの柔らかな髪へと向けられた。
――触られる。
こんなふうに子供扱いされ、すべてを掌の上で転がされているような感覚に耐え切れず、ケビンは反射的に、今度は本気でその手を激しく跳ね除けていた。
バシッ!!
静かな私室に、乾いた打撃音が響き渡る。
ケビンが振り抜いた右手が、宙でピタリと止まった。
──暫くの沈黙。
「……あ」
自分が今、何をしたのか──
皇帝である男、愛している男の腕を、本気で激しく叩き払ってしまったその事実が脳理に追いつかない。
ケビンの瞳が恐怖と動揺で見開かれ、喉の奥から小さく掠れた声が漏れた。
「……れ、お……」
対するレオナルドは、宙に放置されたままの右手を、わずかに見下ろしていた。
微動だにしなかった氷の皇帝の仮面に、生まれて初めてと言っていいほどの亀裂が走る。
いつもなら、不敬の一言で首が飛ぶか、冷酷な罰が下る場面だ。
だが、レオナルドの茶色の瞳に浮かんでいたのは怒りではなく、想定外の事態に一瞬だけ思考を停止させたような、静かな衝撃だった。
自分が向けた愛する者への行動が、恐怖や不信ではなく、剥き出しの拒絶で撥ねつけられたこと。
目の前の少年が、自分の予想を超えたところで限界を迎えているという現実──
二人の間に、ほんの一瞬、埋めがたい川のような冷たい境界がスッと引かれた。
「……ケビン」
低く、どこか掠れたその声には、先ほどまでの絶対的な余裕が嘘のように消え失せていた。
だが、そのわずかな揺らぎを前にしても、ケビンはこれ以上耐えられなかった。
胸の奥が焼き切れるような痛みに突き動かされ、彼はレオナルドの顔を見ることもできず、その場から弾かれたように背筋を凍らせて飛び出して行った。
バタン、と鳴り響いた重厚な扉の音だけが、広大な部屋に取り残された冷たい空気を震わせるのだった──




