29.甘い時間
朝日が宮殿の豪奢な食堂を柔らかく照らし出していた。
洗練された銀の食器がかすかに触れ合う美しい音だけが響く空間。その長テーブルの端と端で、二人は朝食をとっていた。
だが、ケビンの心の中は嵐のように荒れ狂っていた。
(……なんでだよ)
スープに浸したパンをぎゅっと握りしめたまま、ケビンは対面に座る男を薄目で睨みつけた。
レオナルドは何事もなかったかのように、完璧な所作で紅茶に口をつけている。背筋は隙なく伸ばされ、髪一筋の乱れすらない。
昨夜、燃え盛る公爵邸から自分を連れ出し、あんなにも激しく、狂おしい熱で自分を抱き潰した男と同一人物とは到底思えなかった。
(俺なんて……腰は痛いし、肌はまだ熱い気がするし、顔を見るのすら恥ずかしいのに……! なんでこいつは、指一本揺れてねぇんだよ……っ!)
自分だけが昨夜の濃密な体験に囚われ、浮かれているような猛烈な屈辱。ふてくされたケビンは、皿の上のオムレツをフォークで乱暴につつき、あからさまに不機嫌な音を立てた。
すると、レオナルドが静かにカップを置いた。
「どうした? 食欲がないのか、ケビン?」
「っ……!?」
ケビンのフォークを持つ手がピタリと止まった。
ドクン、と心臓が跳ね上がり、ケビンは跳ね起きるように顔を上げた。
(ケビン……?)
今、なんと呼んだ?
いつものように「リトルバニー」と小馬鹿にすることもなく、外交上の名である「コンラッド殿」と距離を置くこともなく、真っ直ぐに甘く低い声音で、自分の真の名を呼んだ。
「な、な……っ」
一瞬で耳の先まで真っ赤に染まっていくケビン。
昨夜、耳元で何度も深く刻みつけられたその響きが脳裏にフラッシュバックし、あまりの破壊力に息が詰まる。
「朝から顔を赤くしたり、口を尖らせたり……忙しい奴だな」
レオナルドはふっと眉の力を抜き、子どもをあやすような、どこか慈しむような目線を向けてきた。
――その『絶対的な余裕』が、ケビンの理性を完全に吹き飛ばした。
ガタアンッ!!
「なんでそんなに平然としていられるんだよっ!!」
ケビンは勢いよく立ち上がる。テーブルの上の銀器が派手に鳴り響いた。
「お前っ……昨夜はあんなに、あんなに激しくっ……!」
叫びかけて、ケビンはハッと我に返った。
自分が何を大声で口走ろうとしたのかを理解し、一瞬で顔が爆発したように真っ赤になる。言葉が喉に詰まり、金魚のように口をパクパクと動かすことしかできない。
レオナルドは至極平然とした態度で、静かに言葉を返した。
「あんなに、とはなんだ? ……そんなに良かったならこのまま続きをと言いたいところだが、あいにくこのあと朝の定例会議がある。終わるまで待てるか?」
「バカ野郎ッ!!」
あまりにも堂々と淡々と大胆な口調で言い放つ皇帝に、ケビンは怒号を叩きつけた。
そのまま真っ赤な顔を覆うようにして、脱兎のごとき速さで食堂を飛び出していく。
バタンッと乱暴にドアが閉まる音が宮殿内に響き渡った。
◇
──残された食堂に、静寂が戻る。
「……何が気に入らないんだ」
レオナルドは不満げに呟き、再び紅茶に手を伸ばそうとした。
「……はぁ。陛下、さすがにそれはコンラッド殿がかわいそうでございますよ」
壁際で控えていたセレスが、心底呆れたような苦笑いを浮かべながら歩み寄ってきた。
「あ?」
レオナルドは不快感を隠そうともせず、セレスを鋭く睨みつける。
「なぜ俺が言われねばならない。望むなら相手をしてやると言ったまでだ」
レオナルドの言葉にセレスは頭を抱えた。
「はぁ……このお方ときたらまったく……。陛下、それが一番ダメなのです」
「あ?」
自分を睨みつけるレオナルドの視線を無視して、セレスはハキハキと、しかし容赦なく言い放った。
「いいですか、陛下? 女性……あいや、男性ですが……! 初めての夜を明かした翌朝というものは、誰しも不安で繊細なものなのです。『自分だけが浮かれているのではないか』『相手は体目当てだったのではないか』と揺れ動くものなのですよ」
セレスは、子どもに説教するように間髪入れず続ける。
「それなのに、陛下は顔色ひとつ変えず、挙げ句の果てに『会議の後に続きを』などと……! 政治の合間の余興のような言い方をされて、傷つかないわけがありましょうか!」
「……だからちゃんと待てるかって聞いたではないか」
「そういう問題ではございません! 気分を害されたコンラッド殿の乙女心……いえ、繊細な恋心を少しは察してさしあげなさい!」
「説教か、セレス」
レオナルドの眉間に深いシワが刻まれる。
「事実を申し上げているのです。剣の腕と帝王学は完璧であらせられますが、恋愛に関しては形無しでございますね。……ほら、ふてくされていないで、会議が終わったらすぐにあの方の元へお行きなさい」
「ふてくされてなどいない!」
ぶっきらぼうに言い返したものの、臣下に「恋心が分かっていない」と真っ向から指摘された皇帝は、不機嫌そうに明後日の方向を向いて黙り込むのだった。
◇
――数時間後。
定例会議を最速で終わらせたレオナルドは、足早に客人の私室へと向かっていた。
ドアの前に立ち、一瞬だけ息を整える。いつもならノックなどせずに押し入るところだが、セレスの鬱陶しい説教が頭をよぎり、珍しく控えめに叩いた。
「……ケビン。入るぞ」
返事を待たずに扉を開けると、部屋の奥のソファで、ケビンが膝を抱えて丸くなっていた。
入ってきたのがレオナルドだと分かると、ぷいっと露骨に顔を背ける。
「……なんだよ。会議は終わったのかよ」
声は低く、完全に拗ねている。
レオナルドは静かに歩み寄り、ケビンの隣に腰を下ろした。
沈み込むソファの重みに、ケビンの身体がわずかに揺れる。
「まだ腹が痛いのか?」
「……違ぇよ」
「では、なぜ顔を見ない」
「……お前の顔見るとムカつくんだよ……」
膝に顔を埋めたまま、ケビンが籠もった声で呟く。
レオナルドは小さな溜息をつくと、大きな手を伸ばし、ケビンの後頭部を優しく撫で下ろした。
暗殺者として研ぎ澄まされていたはずのケビンが、その手に拒否することなく身を委ねる。
「……悪かったって」
「……は?」
レオナルドの予想外すぎる言葉に、ケビンがひょっこりと顔を出した。目が丸くなっている。
「熱でもあるのか? お前? 大丈夫か?」
「は? なんでそうなるんだよ。ちゃんと謝っただろ! 何がそんなに不満なんだ……どいつもこいつも……」
レオナルドはあきらかに不満そうに、ぶつぶつと愚痴のように溢した。
常に完璧でクールな皇帝の、めったに見られない不器用で無防備な姿。
ケビンは呆然とした後、胸の奥からこみ上げてくる愛おしさに耐えきれなくなった。
(なんだよそれ……ずるいだろ……)
「……ブハハハッハハハッ勘弁してくれよ、ハハハハッ」
ケビンは目に涙を浮かべながら腹を抱えて笑い転げる。
「はぁ? お前殺されたいのか?」
レオナルドは笑い続けるケビンに覆い被さり、その口を塞ごうと顔を近づける。
「ま、待て、待て、待った!! 違うって!!」
「はぁ? 何が違うんだ!」
レオナルドの真剣な眼差しにケビンは、真っ直ぐに彼の瞳を見つめる。
そしてケビンは体を乗り出すと、そのままレオナルドの胸元へと飛び込んだ。
「……ごめん。愛してる、レオナルド」
「不安にさせたなら、謝る。……だが、昨夜のことがどうでもよかったわけがないだろう」
耳元で落とされた低く甘い声。
ケビンはレオナルドの服の生地を強く握りしめ、胸に顔を押し付けた。
「……わかったから。もういいって……」
「……可愛い奴」
「う、うるせぇ……」
レオナルドは満足そうに目を細め、腕の中の温もりを慈しむように、静かにその髪に深くキスを落としたのだった。




