36.動き出す陰謀
静まり返る回廊から差し込む月光が、本宮の奥深く——皇后宮の床に長い影を落としていた。
冷たい秋の夜気の中でも、室内には荒い息遣いと、木剣が空を切り裂く鋭い風切り音が響いていた。
ケビンは額から流れる汗を拭うこともせず、手にした重厚な木剣を幾度も振り下ろしていた。皮が剥け、血が滲む掌に走る激痛など、今のケビンには意識の外にあった。
——「愛玩品」「敵国の遺物」……。
政務会議で浴びせられた貴族たちの蔑みの視線と、影で囁かれる屈辱的な言葉が脳裏に焼きついて離れない。
そして何より、玉座から冷酷かつ圧倒的な覇気で自分を守り切り、全貴族をねじ伏せたレオナルドの姿。
「守られるだけの存在でたまるか……!」
歯を喰いしばり、ケビンはさらに深く踏み込んで木剣を振り抜いた。
セレスとの手合わせなど、今の自分にはまだ夢のまた夢だ。まずは潰れた体を鍛え直し、セレスが課す過酷な基礎鍛錬を耐え抜き、レオナルドの隣で繰り広げられる政治の動きを完璧に読み解く力をつけなければならない。
──コン、コン。
静かなノックの音が響き、音もなく扉が開かれた。
入ってきたのは、漆黒の軍服を隙なく着こなしたセレスだった。眼鏡の奥の冷徹な瞳が、血と汗にまみれて木剣を握りしめるケビンを静かに捉える。
「夜更かしもほどほどにしてください、コンラッド様。明日の早朝からも、基礎的な体幹強化と兵法の座学が控えております」
「……セレスか。誰がやめるかよ。一刻も早く、あんたの手合わせに漕ぎ着けないと意味がないんだ」
ケビンは荒い息を吐きながら、木剣の先をセレスに向けた。その瞳に宿る必死の覚悟と執念に、セレスは表情を変えず、ただ淡々と口を開いた。
「焦りは命取りです。陛下があなたを本宮のお手元に置かれたのは、無謀な自爆をさせるためではありません。政治の場に同席し、帝国の構造を理解すること。そして、その華奢な体に最低限の騎士としての骨格を作ること。それこそが今のあなたの務めです」
「分かってるよ! だが、生ぬるいやり方じゃあいつの隣には届かないんだ!」
ケビンが鋭く踏み込み、セレスへ向けて木剣を一閃させた。
だが、セレスは一歩も動くことなく、腰の細身の剣の鞘をわずかに掲げただけで、ケビンの全力の一撃を「コツン」と軽い音とともに受け止めた。
手に伝わる強烈な痺れ。衝撃でケビンの膝がガクリと折れかける。
圧倒的な実力の差。セレスの身体には一切の揺らぎすらない。
「言葉の威勢と、筋肉の弛緩が伴っていませんね。……これ以上は無駄です」
「くっ……まだだ……!」
ケビンが再び木剣を握り直そうとした、その時だった。
重厚な扉が静かに押し開かれ、静寂を切り裂く重厚な足音が室内に満ちた。
振り返るまでもない。全身の皮膚が粟立つような絶対的な威圧感と、夜の闇そのものを纏った男——シュナイゼル帝国皇帝、レオナルド・オーウェンだった。
「……夜半に何をしている」
低く、静かな声。しかしその底には、部屋の空気を一瞬で凍りつかせるほどの王の威厳が満ちていた。
セレスは即座に木剣を受け止めていた手を引き、滑らかな所作で膝をついた。
「陛下。コンラッド様が自主的な修練を重ねておられたところです」
レオナルドはセレスの報告など端から意に介さず、優雅な歩調でケビンへ近づいた。琥珀色の瞳が、ケビンの傷だらけの掌、汗に濡れて肩を上下させる姿をじっと見つめる。
「……セレス。下がれ」
「御意に」
セレスは深々と頭を下げると、音もなく部屋を退出していった。
静まり返る皇后宮の一室。二人きりになった室内で、レオナルドはケビンの手から半ば強引に木剣を滑り落とさせた。床にカランと重い音が響く。
「な、なんだよ……まだ俺は……」
抗議しようとしたケビンの言葉は、レオナルドの強い手によって顎を持ち上げられたことで遮られた。
レオナルドの指先が、ケビンの血の滲む掌を優しく、しかし確固たる力で包み込む。
「血を流すのがお前の覚悟か、ケビン」
「……あいつらに『愛玩品』なんて呼ばれたままでいられるか! あんたがせっかく会議で俺をあそこまで言い切ってくれたんだ……! 俺がふがいないせいで、あんたの顔に泥を塗るわけにはいかないだろ!」
悔しさと熱情の混ざり合ったケビンの叫び。
それを聞きつづけたレオナルドの冷徹な顔に、わずかな、しかし深い愛おしさを孕んだ揺らぎが浮かんだ。レオナルドはケビンの腰を引き寄せ、自身の胸へと強く抱き寄せた。
「くだらぬ雑音など、最初から気に病む必要はないと言ったはずだ。俺がお前を隣に置くと決めた。それ以上に尊い理由は、この帝国に存在しない」
「レオナルド……」
「だが——お前が自らの足でそこに立とうとするなら、俺はお前を止めはしない。……ただし、無茶をしてその体を壊すことだけは許さん。お前が倒れれば、俺がその手で貴族どもを叩き潰すことになるぞ」
過保護なまでの執着と、絶対に揺らぐことのない皇帝としての愛。
ケビンはレオナルドの胸に額を預け、悔しそうに歯を食いしばりながらも、その温もりに静かに背中を預けた。
「……わかってるよ。絶対に倒れたりしない。あんたの真隣に立つまではな」
◇◆◇
翌日──帝国の政務が行われる本宮の大審議の間。
レオナルドの玉座の左斜め後ろには、昨日と変わらずまっすぐに前を見据えるケビンの姿があった。
貴族たちの間には相変わらず冷ややかな波紋が広がっていたが、昨日のレオナルドの一喝を経て、あからさまに暴言を吐く者は誰一人としていなかった。
ケビンはレオナルドの側近として、提出される書類の流れ、各大公や貴族たちの発言の意図、そしてセレスが提示する冷徹な軍政の判断を、乾いた砂が水を吸うように全神経で吸収していた。
(……見えてきた。誰がレオナルドに従い、誰が裏で不満を抱いているのか……)
政務会議の緊迫感の中で、ケビンの鋭い洞察力が急速に開花しつつあった。
戦場に出ずとも、帝国の核心において「政治と軍略の全貌」を理解していく。それこそが、ケビンが「将軍」へと至るための最短の道だった。
しかし——会議の合間、ふと異様な空気の変化が訪れた。
セレスが静かに歩み寄り、玉座に座るレオナルドの耳元へと顔を寄せた。周りの貴族たちにはもちろん、少し離れた場所に控えるケビンにすら決して届かない、極小の密語。
「……陛下。極秘の知らせです。旧ルクシアン領にて、残党勢力がなにやら不穏な動きを見せ始めております」
報告を聞いた瞬間、レオナルドの茶色い瞳が氷のように冷たく光り、わずかに細められた。
セレスの表情にも、普段の完璧な微笑の裏に張り詰めた警戒の色が浮かぶ。
「……そうか。密かに探らせろ」
「御意」
短い交わしだけでセレスは即座に引き下がり、何事もなかったかのように通常の政務へと戻った。
だが、二人のわずかな視線の交錯と冷えた空気を感じ取ったケビンは、小さな胸騒ぎに背筋を凍らせていた。
(……何が起きてるんだ? レオナルドもセレスも、急に顔色を変えて……)
何も告げられないもどかしさと、予感される暗雲。
誰もまだ知らない。
故郷ルクシアンで密かに芽生え始めたこの不穏な動きが、やがて全帝国を巻き込み、レオナルドたちを逃れられない「死の海」へと引きずり出す巨大な惨劇の引き金であることを——




