3.惨敗
──えっ?
「っ……!?!?」
心臓が直接氷水に浸けられたかのような、凄絶な衝撃がケビンの全身を駆け抜けた。
背後。すぐ目と鼻の先。
いつからそこにいた?
足音など一切しなかった。息遣いすら、風の音に紛れて絶たれていた。
血の気が一気に引き、ケビンは弾かれたように跳び起きて振り返った。
そこに立っていたのは——
漆黒の外套を優雅に揺らし、夕闇の中に佇む「氷帝」レオナルド・オーウェン・シュナイダーその人だった。
「な……ッ!?」
ケビンの頭の中で、猛烈な速度で警告音が鳴り響く。
やばいやばいやばい!!
見られた!?
どこから!?
どこまで見られた!?
煙草を吸っていた姿か!? シャツを崩していた行儀の悪さか!?
それとも——
今の計画の独り言を全部聞かれたのか!?
一瞬のパニック。だが、幼少期から「生き残るための演劇」を叩き込んできたケビンの脳は、0.1秒で最高速の計算を叩き出した。
(落ち着け! まだ誤魔化せる! 怯えたフリだ、いつもの可愛い『リトルバニー』を演じきれ!!)
ケビンは瞬時にその場で腰を抜かしたフリをして、尻餅をついた。
可憐な青い瞳に涙をじんわりと溜め、首元を隠すように両手で胸元を押さえながら、上目遣いにレオナルドを見上げる。
「ひっ……あ、あ……陛下……っ!?」
可哀想な小動物のような声で縋るように見つめる。
さっきまでの極悪非道な声色など欠片も残っていない。
「違っ……違うんです、陛下……っ! 僕、僕はただ……っ! お城があまりにも広くて迷子になってしまって……それで、すごく怖くなって……っ!」
ポロポロと涙をこぼし、可憐な身体を小さく震わせる。
「煙……煙草なんて、僕……っ! さっき落ちていたのを見つけて、何かわからなくて拾っただけで……っ! 本当です! 僕は……僕はただの哀れな生き残りで、政治も殺し合いも何も知らないんです……っ! お許しください、殺さないで……お助けください陛下ぁ……っ!」
ケビンの必死の命乞い。
今までの人生の中で一番の演技を続ける。完璧な、涙と鼻水を浮かべた被害者を装う渾身の演技。
そこらの貴族なら「ああ、可哀想に。脅かして悪かったね」と頭を撫でてしまうような、哀愁と愛くるしさに満ちた芝居だった。
だが。
静寂が続く──
夕暮れの風が、手入れの届いていない古い中庭の枯葉をからからと転がしていく。
レオナルドは微動だにせず、ただ眼下に転がるケビンを見下ろしていた。
世界を凍てつかせる「氷帝」の目は、夕闇の影を宿して底知れず深く、だがどこか甘やかな光を湛えている。
ケビンの背中に、不快な冷や汗がダラダラと垂れ落ち続けていた。
(……おい。なんで何も言わない? なんでそんな目で見る……!?)
可憐な『リトルバニー』を演じ、ポロポロと涙をこぼしながら命乞いを続けるケビン。
その胸の中では、焦りと苛立ちが渦巻いていた。
見られたのは確実だ。
崩したシャツ、煙草、そして……
だが、どれだけ疑わしくとも、証拠を突きつけられない限りは「拾ったものに怯えていただけ」「気のせいだ。何かの間違いです」と突っぱねればよい。
完璧な被害者の芝居を貫き通すつもりだった。
だが、レオナルドは追及すらしてこない。
ただ、圧倒的な強者だけが纏うことのできる静けさを携え、優雅に一歩、足を踏み出した。
コツン、と重厚な軍靴が石畳を鳴らす。
「怖がらせてしまったな、ケビン」
「……えっ?」
耳に心地よく響く、低く甘い脳に痺れるような声が落ちてきた。
レオナルドはケビンの前にゆっくりと膝をついた。漆黒の高級な外套が石畳に擦れ、彼が纏う上質な白檀と煙草の大人びた香りが、ふわりとケビンの鼻腔をくすぐる。
そして、レオナルドの美しい長い指が伸びた。
ケビンが乱暴に外していたドレスシャツの胸元——白く華奢な鎖骨のあたりへと、その指先が触れる。
「ひっ……っ」
過剰に身をすくめ、怯えるウサギの芝居を打つケビン。
(こ、殺される?)
しかしレオナルドは、ケビンのその「怯え」すら愛おしむかのように、優しく、実に手慣れた動作でシャツのボタンをひとつ、またひとつと留め直していった。
「こんな場所で、胸元を乱していては冷えてしまう。ただでさえ我が城の夜は冷え込むのだから……可哀想に、身体がこんなにも震えている」
整えられていく襟元。触れ合うか触れ合わないかの絶妙な距離で滑る、レオナルドの温かい指先。
ケビンの胸がドクンと跳ねた。恐怖からではない。
この男の放つ、あまりにも危険で甘美な「大人の男」の包容力に、無意識が警鐘を鳴らしたのだ。
最後のボタンを留め終えると、レオナルドの指先がすっとのぼり、ケビンの細い顎をそっと掬い上げた。
逆らえるはずもない、圧倒的な皇帝の力。
クイと持ち上げられ、強制的に目が合う。
「陛下……っ、僕は……っ」
ケビンの上擦る声に、レオナルドは酷薄なほど美しい唇に、極上の笑みを浮かべた。
それはまるで、迷子の幼子をあやし、包み込む慈悲深い庇護者の顔であった。
——だが、その完璧な「皇帝」の仮面の奥で、夕焼け色に染まった瞳が「お前の茶番など全てお見通しだ」と戯れに告げているようだった。
「拾っただけの煙草の火で、指を火傷しなくてよかった。それに……私の寝首を掻くなどという、可愛らしい『おとぎ話』を夢見るほど、この城の夜は暇だったのだな?」
「ッ……!」
一瞬、ケビンの息が止まる。
追い詰めない。責め立てない。ただ「幼子の他愛もない妄想」として優雅に一蹴し、ケビンの用意した言い訳を、さらに一枚上の「余裕」で包み込んで無効化してみせたのだ。
(この男……! 全部わかってて、わざと……!)
ケビンの内面で、屈辱と激しいイライラが爆発しそうになる。
自分の命がけの演劇も、鋭く研ぎ澄ませた殺意も、この男にとっては退屈しのぎのおもちゃに過ぎないのだ。
だが、ケビンが化け皮を剥ぎ取りそうになったその瞬間。
レオナルドが、ぐっと顔を近づけてきた。
「っ……!?」
──突然のことに息が止まる。
鼻先が触れ合うほどの至近距離。レオナルドの長いまつ毛の影、その奥に潜む甘く危険な瞳が、ケビンの視界を埋め尽くす。
耳元に、熱い吐息が直接吹きかけられた。
「——だが、リトルバニー」
低く、甘く、胸の奥を痺れさせるような囁き。
「お前が私を殺したくなったら、いつでも部屋においで。……警備が手薄になる夜の執務室は、いつでも鍵を開けて待っているよ。ご所望なら私室の寝室へ招待しようか?」
唇と唇が触れ合う直前。キスされる、とケビンが思わず目を剥いた瞬間——
レオナルドは戯れにケビンの鼻先を自分の指でちょんと突き、満足げに微笑んで、すっと身を引いた。
「な……ッ!?」
ケビンの顔が、一瞬で真っ赤に染まる。
羞恥と、困惑と、そして圧倒的な敗北感……。
レオナルドは優雅に立ち上がると、見下ろす位置からケビンに手を差し伸べた。
「さあ、立ちなさい。夕食の時間だ。シェフに、お前の好きそうな甘いお菓子を用意させてある」
どこまでも親切で、どこまでも甘く、そして絶対にケビンに主導権を渡さない「絶対王者」の立ち振る舞い。
ケビンはその手を一瞬睨みつけたあと、消え入るような声で「……はい、陛下……っ」と呟き、涙を拭うフリをしてその手をとった。
可憐で健気な『被害者王子』の仮面を必死につなぎ止めながら。
(くっそぉ!! この野郎! 喰えない……! どこまでも喰えないクソ皇帝がぁ……っ!!)
レオナルドに引き上げられながら、ケビンの胸の奥では、身を焦がすような激しい怒りと「嫉妬」が渦巻いていた。
自分とこの男の間の、圧倒的な格の差。自分の思い通りにいかない焦燥感。
そして何より——
一瞬でもこの男の甘い声と距離感に胸を跳ねさせてしまった自分自身への、耐え難い屈辱。
(見てろ……絶対に油断させて、その余裕ぶっこいた顔を絶望で歪ませてやる……!!)
手を引かれたまま、レオナルドの歩幅に合わせて追いかけるように歩くケビン。
いつでもケビンが狙えるように背中を堂々と見せるレオナルドは振り返ることもなく、満足そうに薄い唇を歪めていた。
捕らわれた毒ウサギの、果敢で必死な暗殺計画。
それをすべて手のひらの上で転がし、愛でる皇帝。
偽りの愛と、隠された猛毒が交差する宮殿で、二人の甘く危険な化かし合いの日常が、静かに幕を開けたのだった。




