2.リトルバニー
——ギィ……ン。
巨大な黒鉄の重門が重々しい音を立てて開かれ、騎兵の群れがシュナイゼル帝国の大宮殿へと入城した。
300年続いた秘境の国を僅かな兵を連れ、たった数時間で焦土に変えた美しき非情の皇帝レオナルド・オーウェン・シュナイダーの凱旋。
だが、その威容に湧くはずの宮殿内には、どこか異様で不穏な空気が渦巻いていた。
原因は、皇帝のすぐ後ろをついて歩くひとりの少年——滅びたルクシアン王家の生き残り、ケビン・コンラッドの存在だ。
黒大理石が鏡のように磨かれた長く豪華な廊下。
左右に居並ぶ貴族、将校、侍女たちの視線が、突き刺さるようにケビンに注がれる。
そこにあるのは明確な反感、そして「生き残りの捕虜」を見る奇異な目だ。
(なんなのあの子……? ルクシアンの王子でしょう?)
(陛下は何をお考えなのだ? まさか、あの可憐な少年に心を奪われたとでも……)
(敵国の血を引く生き残りを城に招き入れるなど、正気とは思えん……)
ヒソヒソと囁かれる嘲笑と不安の混じる声。
だが、当のケビンはそんな視線などどこ吹く風だった。
華奢な身体に上質な仕立ての服を纏い、背筋をすっと伸ばして堂々と廊下を歩く。恐怖に縮こまる様子など微塵もない。
「…………」
そのすぐ斜め前を歩くレオナルドの薄い唇が、周りに気づかれぬほどわずかに愉悦へと歪んだ。
(……ふ)
心の中で低く笑う。
ほんの数時間前、ルクシアン城の血の海の中で、自分の足元に這いつくばり、ポロポロと涙を流して命乞いをした可憐な「演技」の面影など、どこにもない。
泣く子も黙る氷帝たる自分に対し、瞬時に「弱いふり」をして命拾いを選択した度胸。
そして今、敵陣の渦中に乗り込んできながら度々見せる、この図々しいまでの図太さとずる賢さ。
(見事な化け狸……いや、毒ウサギだな)
レオナルドはその正体を全て察していながら、おくびにも出さない。
周囲が「陛下はあの可憐な少年に惑わされたのか」と騒ぎ立てているのも承知の上で、聞こえないふりを決め込んでいた。
退屈な宮殿に舞い込んだこの毒蛇を、手元で飼い慣らす愉しみを誰かに邪魔させる気など毛頭なかったからだ。
◇◆
「……陛下」
執務室へと続く重厚な扉の前。レオナルドの側近であり、筆頭秘書官を務めるセレス・クロフォードが、冷や汗を浮かべながら意を決して前に進み出た。
宮殿内の不穏な空気と、貴族たちの動揺を抑えきれず、覚悟の進言に及んだのだ。
「陛下、やはりルクシアン王家の者をこの城に入れるべきではなかったのではありませんか? 臣民の動揺も小さくありません。どのような意図がおありかは存じませんが、早急に——」
レオナルドは歩みを止め、ゆっくりと振り向いた。
その美しい双眸がセレスに冷たく注がれた瞬間、周囲の空気が凍りついた──
「俺の決断に、いつから否を唱えられる身分になったのか? セレスよ」
感情の一切籠もらない、氷のような一言。
それだけでセレスの顔からは血の気が引き、二度と口を開くことができなくなった。
レオナルドは翻る漆黒の外套とともに、そのまま一人で執務室へと消えていった。
◇◆
(へっ……バカどもが。ジロジロ見やがって)
一方、あてがわれた客間を出たケビンは、城内を勝手にウロウロと歩き回っていた。
目的はただひとつ。
レオナルドを暗殺するための「死角」の把握、そして実行後の「逃走経路」の確保だ。
どこに兵が配置されているか。どの時間帯に警備が薄くなるか。
壁の厚さ、隠れられる影、外へ脱出できる窓。
本来の姿である冷徹な観察眼で、城内の構造を脳内マップに刻み込んでいく。
「あら……? あなたが、ルクシアンから来られた……」
廊下の曲がり角で、大きな洗濯籠を抱えた下働きの女性たちと鉢合わせた。
彼女たちは敵国の王子という存在に警戒し、体を硬くする。
——次の瞬間。
「あ……こんにちは!」
ケビンの表情が一変した。
花がほころぶような、極上の美少年スマイル。透き通る青い瞳をきらめかせ、可憐で人懐っこい笑みを全開にする。
「お仕事、お疲れ様です! 僕は、ケビンと言います。こんな大きな籠、重たくないですか? 手伝えることがあったら何でも言ってくださいね」
「っ……! あ、あらまあ……!」
「まあ、なんて可愛らしいお方! あっ、可愛らしいなんて失礼ですわね……ご無礼を……お許し下さいケビン様……」
震える中年女性に向かって、ケビンは「気にしないで」と両手を振りにっこり微笑んでみせた。
一瞬だった。
可憐な容姿と完璧な演劇の前に、下働きの女性たちや、通りかかった年配の庭師たちの警戒心はみるみる霧散していく。
「あんなに良い子が人質だなんて可哀想に……」
「お腹が空いたら、いつでも厨房においでね」
口々に皆がケビンに声をかけた。
(よしチョロい。まずは下層の奴らから味方につけて、情報を引き出す網を張る……)
心の中で冷たく舌を打ちながらも、ケビンは「ありがとうございます!」と可愛らしく手を振ってその場を離れた。
◇◆
そうして巡回を続け、やがてたどり着いたのは、入り組んだ宮殿の奥深くにある使われていない古い中庭だった。
手入れの届いていない茂みと高い石壁に囲まれた、完全なる「死角」。
「ふぅ……ッ」
誰もいないことを完璧に確認した瞬間。ケビンの顔から「可憐な美少年王子」の皮がベリベリと剥がれ落ちた。
胸元を締め付けていたフリフリの王子衣装のドレスシャツ——そのボタンを胸元まで乱暴に外し、鎖骨を露出させる。
そして、ポケットから手慣れた動作で取り出したのは、下働きからすり盗っていた紙巻き煙草とライターだった。
シュカッ、と小さな火花が散り、煙草の先に小さな赤が宿る。
「……ハァーッ」
紫煙を天に向かってだらしなく吐き出し、ケビンは壁に背をあずけて片脚をコンと打ちつけた。
その姿は王子などでは断じてない。路地裏の悪ガキそのものの、柄の悪い不敵な面構えだ。
「へっ……どいつもこいつも、バカばっかりで助かるわ。ちょっと微笑んでやりゃあコロッと騙されやがって……」
煙草を指に挟み、冷ややかな青い瞳を細める。
「それにしても……あのクソ皇帝、レオナルド・オーウェン」
紫煙の向こうに、あの男の冷徹な顔を思い浮かべる。
「執務室の裏に通気口があったな。狙うなら警備が手薄になる夜か……」
短くなった吸い殻を地面に放り投げ、高級な皮革靴の裏でグリグリと踏み消した。
その瞬間だった──
「——ほう。私の寝首を掻っ切る手順でも頭に浮かべていたのか?」
(えっ?)




