27.救出(1)
冷たく湿った石造りの暗闇の中、鎖に繋がれたケビンは、もうまともに立つこともできず、冷たい床に膝をついていた。
全身に走る激痛と、じっとりと肌を這う死の気配に、これまでか……と、諦めかけていたその時──
──ドガーーン!!
地下牢へ続く重々しい鉄格子の扉が、狂ったような轟音とともに打ち破られた。
ケビンは乱れた前髪の隙間から、恐怖に震える瞳を上げた。
立ちこめる血の匂いと吹き抜ける夜気を纏ってそこに立っていたのは、紛れもなくレオナルドだった。
だが、その姿を見た瞬間、ケビンの胸に走ったのは安堵ではない。
背筋を凍らせるほどの紛れもない絶望だった。
(……なんで……っ! 来るな! どうして……来たんだよ……)
ここはグラント公爵が仕掛けた死の罠だ。俺を餌に、あんたを殺すためだけに用意された、逃げ場のない深淵で、今のこの狂人公爵は話して通じる相手ではない。
それなのに……何故来たんだよ……。
レオナルドの足音が静まり返った地下室に狂おしく響く。
そして一歩踏み出そうとしたその刹那――闇の影から躍り出たグラント公爵が、血走った目を剥き出しにしてケビンの背後へと回り込み、冷たい刃をその喉元へと深々と突き立てた。
「動くなぁっ!! ……一歩でも足を踏み出してみろ、このガキの首を今すぐズタズタに引き裂いてやる!」
公爵の狂気を含んだ絶叫が、狭い石壁に激しく反響する。
冷たく研ぎ澄まされた刃が皮膚を食い込み、ケビンの首筋から一筋の熱い血がツーと垂れ落ちた。
その痛みに息を呑みながらも、ケビンは頭を振った。
(いやだ……俺を気にするな……早く逃げろレオナルド!!……っ!)
声にならない叫びを飲み込み、ケビンが身を硬くしたその時――
「……離せ」
地獄の底から這いずるような、抑え込まれた低い声。
その瞬間、ケビンは息を止めた。
どんな非情な局面が起ころうと、一度たりとも仮面を崩したことのなかった男、絶対王者として常に鉄の冷徹さと孤高の余裕を保っていたレオナルドの眉根が、見たこともないほど激しく、狂おしく歪んでいた。
その瞳に渦巻いていたのは、冷徹な理性の欠片もない、身の毛もよだつほどの激しい殺意だった。
そして――それ以上にケビンの心を打ち震わせたのは、自分の存在を人質に取られたことに対する、理性を完全に焼き切ったほどの「激しい動揺」だった。
(……嘘だろ……? レオナルドが……あんな顔をしてる……?)
ケビンの思考が音を立てて崩壊する。
あの気高き皇帝、冷静な絶対者が、今、自分のためにここまで表情を歪め焦燥に狂いかけている。
その事実があまりに現実離れしていて、ケビンは恐怖すら忘れ、ただ呆然と見上げるしかなかった。
「クハハハハハッ! 随分と大事に、慈しんで囲い込んでいたようだな、この忌々しいガキを!」
公爵は狂気に満ちた笑い声を上げ、ケビンの髪を容赦なく掴み上げてその耳元へと顔を寄せた。
肌を這わせるように、ねっとりと湿った息を吐き出す。
「この愛玩動物を生かして返して欲しければ……今すぐその場で膝を折れ、レオナルド! 我が足元に這いつくばり、妹マリアを死に追いやったオーウェン家の罪を、血の涙を流して詫びろ!!」
公爵の指がケビンの頬を汚すように撫で下ろし、刃の切っ先がさらに皮膚を圧迫する。
見せつけるような、そして尊厳を引き裂く屈辱的な挑発の目でレオナルドとケビンを交互に見下ろす。
レオナルドの拳が、血が滲むほど固く、割れんばかりに握りしめられた。
その瞬間、殺気だけで周囲の空気がバリバリと凍りつき、空間そのものが悲鳴を上げているようだった。
――そして。
鉄の誇りを誇るシュナイゼル帝国皇帝、悪魔と呼ばれた絶対王者の膝が、音を立てて、ゆっくりと、しかし確実に崩れ落ちていく。
「――やめろっ……!!」
闇を切り裂き、血を吐くような絶叫がケビンの喉から爆発した。
その顔は真剣そのもので、あふれ出した涙が、止まることなく頬を伝ってボロボロと零れ落ちている。
「やめてくれ、レオナルド……! こんなゴミクズのようなやつのために、……頭なんて下げるなっ!! 俺のことなど気にするな、早くここから出て行ってくれ……っ!」
ケビンが絶叫し、公爵が一瞬虚を突かれて視線を泳がせた。
――その刹那。
沈みかけたレオナルドの足元が、爆発した。
踏み込みの凄まじい衝撃で、分厚い石畳が粉々に砕け散る。
公爵が悲鳴を上げる間すら与えず、限界までしならせた身体を弾丸のように放ったレオナルドの靴底が、公爵の顔面を真横から凄まじい勢いで打ち抜いた。
――ガッッ!!!!!
肉を裂き骨を砕く凄まじい激突音。
公爵の体が、まるで紙切れのように弾き飛ばされて石壁へと激しく叩きつけられ、その手から弾け飛んだ短剣が、床の上を虚しく転がり落ちた。
「ぐっ……があっ……!」
壁に激突し、真っ赤な鮮血を吐き出しながら崩れ落ちる公爵。
だが、その口元に浮かんでいたのは、悪逆な笑みだった。
「……ハ……ハハハハハッ……! 終わるものか、道連れだ……オーウェンの血もろとも、すべてこの業火に焼き尽くされろ……!!」
公爵が血まみれの手で放り投げた火種の灯る燭台が、部屋の隅へと転がり落ちる。
その先には、あらかじめ張り巡らされていた無数の可燃性の油壺があった。
――ドォンッ!!……ドゴォォォンッ!!!
腹の底をえぐるような爆ぜる音とともに、地を這う奔流と化した猛火が一気に爆発した。
一瞬にして床を舐め尽くす真っ赤な炎が、轟音を立てて空間を呑み込んでいく。
圧倒的な熱風が皮膚を焼き払い、漆黒の猛煙が天井へと渦を巻いて駆け上がった。
酸素が消えかけ、息をするだけで肺が焼けるような地獄の釜が開いた。
「っ……!」
爆風の余波をまともに受けながらも、レオナルドは一瞬たりとも足を止めない。
崩れ落ちる天井から、数トンもある巨大な石梁がメキメキと音を立てて落下してくる。
視界を完全に遮る炎の壁を素手で切り裂き、拘束を解き放たれたばかりのケビンのもとへと、獣のように跳躍した。
「レオナルド……っ!」
視界が白煙と火の粉で真っ白に染まる中、恐怖と熱気で足のすくんだケビンの腕を、レオナルドが鋼の腕で荒々しく掴み上げた。
そのまま引き寄せるように、震え、怯える細い体を、自身の硬く温かい胸板へと力強く、ねじ伏せるように抱き締める。
「待たせたなケビン」
耳元でかすかに掠れたその声は、これまでの冷徹な皇帝のそれではない。
大事な物を優しく包みこむような温かな声だった。
頭上で巨大な柱が崩落し、頭すれすれに火の粉が降り注ぐ中、レオナルドはケビンの顔を両手でしっかりと包み込み、その濡れた瞳を真っ直ぐに見据える。
その瞳に宿る熱に、ケビンの呼吸が完全に止まった。
「愛している、ケビン。お前を絶対に死なせない。この命に代えても、私が護る」
初めて紡ぎ出された、冷やかしでも弄びでもない、偽りのない真実の眼差し。
「……ずるい……ずるいよ、今言うなんて。そんなの……っ!」
ケビンは堰を切ったように声を上げ、激しく泣きじゃくりながら、レオナルドの首筋に両腕を回し、その胸元へと顔を埋めた。
「来ないでほしかった。こんな危ないところ、来てほしくなかったのに……っ! でも……本当は、怖かった……もう二度と会えないんじゃないかって、あなたに忘れられるんじゃないかって。一人で死ぬのが、怖くてしかたなかったんだ……っ!」
暗殺者としての誇りも、強がりも、すべてが崩れ落ちていく。
ただの愛に飢えた一人の少年として、ケビンは全身でレオナルドにしがみつき、彼の服を爪が食い込むほどに握りしめて咽び泣いた。
崩落する地獄の炎の中、レオナルドは最愛の体を片腕でしっかりと抱え込み、残る片手で背中を力強く抱き寄せると、燃え盛る地下牢から驚異的な跳躍で駆け抜けた──




