24.秘密(1)
湿り気を含んだ地下の冷気が、足元からじわじわと肌を刺してくる。
案内された場所は、煌びやかな屋敷の地上とは完全に切り離された、地下深くの密室だった。
煤けた石壁に打ち付けられた松明の炎がユラユラと蠢き、気味の悪い影を壁に映し出している。
部屋の中央には、そのおどろおどろしい空間にはあまりに不釣り合いな、豪奢な赤革のソファがぽつんと置かれていた。
「――さあ、どうぞお掛けください、コンラッド様」
グラント公爵が手招きする。その口元には薄笑いが貼りついていたが、細められた瞳の奥からは、ねっとりとした濁った粘光が放たれていた。
ケビンは背筋にゾクゾクと冷たい悪寒が走るのを感じ、足を止めた。
目の前の男から放たれる気味の悪い空気。それは、いつもケビンを冷たい瞳で見下ろし、弄ぶような態度をとるレオナルドの威圧感とはまったく違っていた。
純粋な悪意と、醜悪な欲望が不快に粘りつくような、耐えがたい居心地の悪さが感じられた。
(客間なんかじゃねぇ……。完全に閉じ込めに来てやがる……!)
胸の奥で心臓がドクンと激しく跳ね上がった。上着のポケットに忍ばせた銀のケースを上から強く握りしめ、その固い感触で必死に足をすくませまいと踏みとどまる。
「……用があるならここで聞く。そんな気味の悪いところに座るつもりはない!」
ケビンは必死に強がりを口にし、鋭い眼差しで睨みつけながら踵を返そうとした。
その瞬間――
「お座りください、コンラッド様」
地下室の静寂を切り裂いたのは、公爵の今までとは一変した、低く冷徹な支配の響きだった。
影の中から気配もなく現れた二人の大柄な男が、ケビンの両腕と肩をガチリと掴みあげる。
鋼のような力で強引に押さえつけられ、足が地から浮いてしまう。抵抗しようと暴れる間もなく、ケビンは強引に赤革のソファへと深く押し倒された。
「放せっ……! 汚ない手で触るな!」
肩を押しつけられ、身動きが取れない。
息を呑むケビンの上から、グラント公爵がゆっくりと歩み寄ってきた。
顔が触れそうなほど近くへ身を乗り出し、生温かく湿った息を耳元へ吹きかけてくる。
「……実に可憐で、可愛らしい子ウサギですね。夜はまだ始まったばかりだというのに、そんなに急いでどうするのです?」
ねっとりとした手指がケビンの頬を撫で上げ、耳たぶを酷薄に抓り上げた。
「ッ……! やめろ、近づくな!」
激しい拒絶とともに身を捩り、公爵の手を振り払おうとした瞬間――
――パァンッ!!
鈍く乾いた衝撃音が、密室の石壁に跳ね返った。
激痛が顔の右半分を襲い、ケビンの視界がぐらりと揺れる。
公爵が一切の手加減もなく、狂気的な眼差しを光らせてケビンの頬を思い切り叩きつけたのだ。
口の中に生温かい鉄の味が広がり、痺れた皮膚が熱く跳ね上がる。
「静かにしなさい。……騒がないでいただきたいと言ったでしょう?」
公爵の顔から笑みが消え、嗜虐的な狂熱だけがその瞳に宿っていた。
叩いた自分の手を愛おしそうになめずりしながら、公爵はさらに顔を近づけてくる。
「せっかくの歓迎の宴なのですから……じっくりと、存分にかわいがって差し上げますよ。その生意気な口が、助けを求めて泣き叫ぶまでね」
粘りつくような視線と、ねっとりとした声。
その気味悪さにケビンの全身の毛穴が逆立ち、猛烈な吐き気が込み上げてくる。
だが、ここで折れてやるつもりなど毛頭なかった。ケビンは血の混ざった唾を床に吐き捨てると、睨みつけるような青い瞳で公爵を射抜いた。
「ふざけんな……! 触んじゃねぇって言ってんだろ! 殺すならさっさと殺せ! どうせあの時、レオナルドに摘まれていたはずの命だ……覚悟なんてとっくにできてるんだよ!」
捕らえられた腕を痛むほど強くねじりながら、ケビンは全力でタンカを切った。
だが公爵は怒るどころか、うっとりと目を細め、歓喜に震える手でケビンの顔を覗き込んでくる。
「素晴らしい……美しいですねぇ、その生き生きとした顔は。絶望に染まる直前の強がりほど、惹きつけるものはない……」
舌なめずりをしながら、ねっとりとした手がケビンの顎を強固に掴み上げた。
抵抗する隙を与えず、その歪んだ薄汚い唇が強引に重ねられようとする。
顔が重なり、ケビンの唇をグラント公爵が捕らえるその瞬間──
――ガチッ!!
「グ、あぁぁっ……!?」
触れた公爵の唇に、ケビンはありったけの力を込めて奥歯を立てた。
ブチリと肉の千切れる嫌な音が響き、鮮血が公爵の口元から勢いよく吹き出す。
あまりの痛みに公爵が悲鳴を上げ、血塗られた手で顔を押さえながら大きくのけぞった。
ケビンは口の中に残った不快な血を激しく吐き捨て、冷たい眼差しで顔を背ける。
「っ……この、ウサギが……ッ! こっちが優しくしていると生意気な!」
公爵は指先で自分の唇から垂れ落ちる血を拭い、激昂した顔でケビンを睨みつけた。
だが、その血に濡れた指先を見つめた瞬間、男の表情が奇妙に固まった。
「……おや……? 何だ、その反応は……?」
公爵の細い目が、信じられないものを見るかのように大きく見開かれる。
「……まさかお前? ……あのレオナルドに、指一本触れられていない?」
「っ……あ!?」
「ふ……ふはははっ! ははははははっ!!」
突如として、地下室に甲高い狂気の高笑いが響き渡った。
公爵は唇の傷も忘れたかのように腹を抱え、涙を流しながら笑い転げる。
「なるほど、手付かずですか……。声を荒げて拒絶するその様……間違いない! あの冷酷無慈悲な男の血を引く息子だ、夜毎に自室へ引きずり回され、無惨に抱き潰されているものだと思っていたのに、まさかな。とんだ拾いものをしたものだ。ふっはははっ!」
腹を抱えて嗤い続ける公爵の狂気じみた姿に、ケビンの頭の中に強い疑問と不快感が湧き上がった。
(息子……? 冷酷無慈悲な男の……血……?)
聞き捨てならない言葉にケビンが眉をひそめた瞬間、公爵は笑いをぴたりと止め、ゾッとするほど冷酷な本性を露わにした。
「なぜ私がお前を捕らえたか、不思議そうな顔をしていますね。……はっ、そんなこともわからないのですか? レオナルドをここに呼び寄せるための『餌』だからですよ」
「……餌……だと……?」
「誰があの非道な男の手垢のついたお下がりになど興味を持つものですか! 私はねぇ、あの高慢ちきな男が泣き叫び、私に許しを乞いながら地面に這いつくばる姿が見たいだけなのですよ……! 想像しただけで、ゾクゾクと全身の血が湧き立つ……!」
目を血走らせ、狂乱したように指をくねらせる公爵。その残忍で醜悪な姿に、ケビンは胸の奥から冷たい怒りが込み上げてくるのを感じた。
「ハッ……おめでてぇ頭してんな! あのレオナルドが俺なんかのために来るわけねぇだろ! それに……あいつは今頃、大公の誕生会に行ってるはずだ!」
「誕生日会? ふふ……本当におめでたいウサギだ。あの男が本気でバカ兄貴の誕生日を祝うとでも思っているのですか?」
「???……兄貴……? 親父だろ……!?」
ケビンの混乱した声に、公爵は血塗られた口元を歪め、ねっとりとした嘲笑を向けた。




