23.毒蛇の館
シャンデリアの眩い光が注ぎ込む大広間は、甘い百合の花の香りと、貴族たちの放つ香水の匂いで満たされていた。
そこは華やかな管弦楽の調べが響き渡り、煌びやかな衣装を纏った参加者たちがグラスを傾けている。
だが、その華美な空間の真ん中に漂う空気は、触れれば指先が凍りつくほど冷ややかだった。
◇
大広間の重々しい扉が左右へと開かれる。
漆黒の礼装を纏った皇帝レオナルドが、足音もなく静かに足を踏み入れた。
その腕には、側近のセレスが用意させた、あまりに巨大で鮮やかな花束が抱えられている。
慶事の象徴であるはずの大輪の薔薇は、男の冷徹な佇まいの前では、まるでお供え物のような白々しさを放っていた。
「――これはこれは。我が愛しき皇帝陛下。よくぞお越しくださった」
会場の喧騒が一瞬で静まり返るなか、広間の奥から歩み出てきた男――フレデリック・オーウェン。
胸元に豪奢な勲章をいくつも揺らし、皇帝の「父」として君臨するその男は、口元に親しげな笑みを浮かべていた。
だが、細められた瞳の奥には、氷のような冷たさと、煮えくり返るような不快感が渦巻いている。
「父上。生誕の日、心よりお慶び申し上げます」
レオナルドは優雅に歩み寄ると、感情の欠片もない低い声で祝辞を述べ、抱えていた巨大な花束を差し出した。
「お気に召すとよろしいのですが。父上の特別な日に相応しいものをと、選ばせました」
受け取ったフレデリックの指先が、花束のラッピングを微かに強く圧迫する。
「……丁寧なことだ。数年ぶりに開いた私の生誕祝賀会に、わざわざこのような大層な花を届けてくれるとはな」
何が祝賀会だ、と。
交わされる視線と視線の間で、火花のような静寂が弾けた。
数年ぶりに開かれた大公誕生夜会。わざわざケビンを名指しした招待状。
その白々しい招待状をレオナルドが握りつぶし、一人で乗り込んできたことを、フレデリックは即座に理解していた。
自分を無視し、目の前で完璧な親孝行の息子を演じてみせる男――いや、若き皇帝の態度が、フレデリックの腹の底でドロドロとした怒りを燃え上がらせる。
「ところで、レオナルド」
フレデリックは花束を従者へと無造作に投げ渡すと、手に取ったグラスのふちを指先でなぞりながら、ねっとりとした声を滑り込ませた。
「招待状には『特別なお客』も連れてくるようにと書き添えておいたはずだが……姿が見えんな。噂に聞く、あの可憐で可愛らしい亡国の王子殿はどうされた?」
大広間の空気に、不穏な緊張が走る。
周囲の貴族たちが息を殺して二人の様子を伺っていた。
「城に招き入れ、日々熱心に愛でていらっしゃると聞き及んでいる。まさか我が息子……いや、皇帝陛下にそのような男色の趣味がおありだったとは。ぜひ一度、その愛らしいウサギ殿にお目にかかりたかったのだがね」
からかうような、そしてあからさまにケビンという存在を脅しに使う言葉。
レオナルドの長いまつ毛が静かに伏せられた。
琥珀色の瞳の奥で、ドス黒い殺意が一瞬だけ蠢く。
自分の大切なものに、その汚い口で触れられた不快感が、喉の奥を焼いた。
だが、レオナルドの仮面には欠片のひびも入らない。
「お戯れを、父上。彼は大切な客人です。本日は体調が優れぬため城で休ませておりますが……父上のこのような騒々しい宴に連れてくるのは些か……あまりに繊細で可憐なウサギですので」
レオナルドは唇の端をわずかに上げ、完璧で冷たい微笑を返した。
「それに……余計な毒気に当たられては困りますから」
フレデリックの瞳がピキリと細まり、グラスを握る関節が白く強張った。
化かし合いの笑顔の裏で、互いの首元へナイフを突きつけ合うような凶暴な静寂が、二人の間に満ちていく。
◆◇◆
同時刻――。
公爵邸の最奥へと続く、どこまでも長い地下廊下。
松明の炎が、煤けた石壁を不気味に赤く染め上げ、ケビンの荒い呼吸音だけが暗闇に響いていた。
上着の胸ポケットには、あの男から受け取った銀のケースがある。ケースの角が肋骨に強く刺さる感触だけが、狂いそうな鼓動をかろうじて現実に繋ぎ止めていた。
表の警備を潜り抜け、手引きの男によって案内されたこの暗がりで、一歩足を踏み出すたびに、冷たいカビの匂いと、鼻を突く鉄の匂いが強くなっていく。
(静かすぎる……。罠だとしても、何かがおかしい……)
ケビンは腰に差した小刀の柄を、指先が白くなるほど強く握りしめる。
湿った石畳を蹴る自分の靴音が、静寂の中にどこまでも響いていく感覚。
見えない闇の奥から、無数の視線が自分を凝視しているような錯覚に、背筋を冷や汗がすーっと滑り落ちた。
ドクン、ドクン、と耳の奥で鼓動がうるさく跳ね上がる。
(逃げてばかりいられるか……。俺はもう、あの男の庇護を待つだけのウサギじゃねぇ……!)
奥歯を強く噛み締め、膝の震えを力任せに押さえつける。
その時――長い廊下の突き当たり、重々しい鉄格子の扉が、甲高い金属音を立ててゆっくりと開いた。
眩い松明の光が溢れ出し、影の中から一人の男が姿を現す。
豪華な衣装を纏い、細い目を歪めた男――グラント公爵だった。
「――ようこそ我が邸へ。ルクシアン王国王子、ケビン・コンラッド・ルクシアン様」
公爵は胸に手を当て、狂気を含んだ薄笑いを浮かべながら、うやうやしく深々と頭を下げてみせた。
ケビンの息がピタリと止まる。
歓迎の意を示すその仕草とは裏腹に、公爵の背後に広がる暗闇からは、絶望的な死の気配と、二度と引き返せない狂気の罠が、蛇のようにぬらぬらと鎌首をもたげていたのだ。
「さあ……お待ちしておりましたよ。真実をお探しのご可憐な王子殿」
薄暗い廊下に、公爵のねっとりとした声が気味悪く響き渡った──




