22.脱出
――ついに、この日がやってきた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光すら、どこか鉛のように重く冷ややかで、早朝から宮殿内を忙しく行き交う近衛兵たちの甲冑が擦れ合う微かな金属音だけが、静まり返った廊下に冷たく響いていた。
セレスの指示する低い声に、城全体が触れれば切れる刃物のようにピンと張り詰めている。誰ひとりとして余計な口を開かず、張り詰めた空気だけが宮殿の廊下を支配していた。
その重苦しい空気の真ん中で、ケビンは息を殺すように平静を装うことに全てを集中していた。
――悟られぬように。
胸の内で激しく脈打つ鼓動の音すら、この静寂に溶かし込むように──
◇
――カチャン。
静まり返った朝の食堂に、銀のナイフが磁器の皿を削る高い音がひとつ、虚ろに響いた。
ケビンは努めて平然を装い、焼き上げられた肉にナイフを立てていた。だが、指先が微かに強張り、冷や汗が背中を滑り落ちていくのが自分でもはっきりとわかる。
(落ち着け……顔に出すな。いつも通りにしろ……)
喉の奥がカラカラに乾いていた。肉を口に運んでも、粘土でも噛んでいるかのように味がまったくしない。咀嚼する音すら命取りになる気がして、顎を動かすことすら苦痛だった。
ドクン、ドクンと胸の奥で心臓がうるさいほど跳ね上がり、あばら骨を内側から激しく叩きつける。
向かいに座る男――レオナルドは、極上のシルクのガウンを羽織り、優雅に紅茶のカップを口元へ運んでいた。白く細い指先、乱れのない佇まい、一切の無駄がない洗練された身ごなしはいつもと変わらない。
あの毒事件の日、今と同じこの時間、この空間──
目の前で真っ青になり、氷のように冷たくなって崩れ落ちたこの男の顔が脳裏に固くちらつく。
(また……俺に何も言わず、一人で知らん顔して行く気かよ。「子供扱いすんな」「俺は守られるだけのウサギじゃねぇ」)
目の前の男への言い表せない葛藤が、胸の奥で激しくドロドロと渦巻き、ズキンと苛むように締め付けた。こんなにも近くにいるのに、この男の本当の胸の内だけがどうしても見えない。
――だが、この胸の激しい乱れだけは、絶対にこの男に悟られてはならない。
勘づかれれば、この鋭い男は瞬時に自分を檻に閉じ込め、二度と外へ出してくれなくなるはずだ。息を吸うタイミングすら慎重になりながら、ケビンは必死に視線を皿の上へと固定した。
「どうした? 珍しいな。食欲がないのか? ケビン」
低く、どこまでも澄んだ声が室内の静寂を打ち破った。
ピクッと、ケビンの肩が跳ねる。
レオナルドが静かにカップを置き、じっとこちらを射抜いていた。伏せられていた長いまつ毛が上がり、見つめ返してくるその瞳は、ケビンの皮膚を一枚一枚剥ぎ取って、胸の内の企みまで見透かしているかのようだった。背筋に一筋の寒気が奔る。
「ッ……! 食ってるだろ!」
ケビンは強引に肉を喉へ押し込み、強がり丸出しの生意気な顔で口元を歪めてみせた。青い瞳に反抗の光を無理やり宿らせ、視線を突き返す。
「なんだよ、朝から人の顔ばかり見やがって。気味が悪いな」
レオナルドは返事をせず、ただソーサーへカップを戻す。
――カチ。
わずか、ほんのコンマ数秒、レオナルドの指先がカップの縁を強く圧迫し、関節の皮膚が白く強張った。ほんの一瞬の、爪の先が白くなるほどの力込めた動作。ケビンの目はそれを見逃さなかった。
(……ふうん。あんたでもそのポーカーフェイスが崩れることもあるのか)
上着のポケットの中、レオナルドから投げ渡された愛用の銀のケースを、指先で強く握りしめた。刻印された『Leonard』の文字が、掌に固く鋭く刺さる。
その痛みと熱さが、今にも破裂しそうな焦燥感をかろうじて繋ぎ止めていた。
喉まで出かかった「どこに行くんだよ」という言葉を飲み込み、ケビンはそっぽを向いた。
自分には何一つ言わないレオナルド。いつまでも子ども扱いする目の前の男に、ケビンは悔しさと腹立たしさを隠しながら、今日の計画を悟られないために、ぐっと堪えた。
今は我慢するしかない――。
ここで一歩でも踏み外せば、全てが灰になる。
◇◆
やがて夕刻が訪れ、宮殿の空気はより一層限界まで研ぎ澄まされた。西の空が不気味な茜色から深い群青へと染まっていく。
重厚な装飾が施された皇帝の馬車が、物々しい護衛を引き連れて城門の前に横付けされた。漆黒の礼装に身を包んだレオナルドが、車内へと足を踏み入れるのが見える。
その背中は、どんな感情も差し挟む隙がないほど冷たく聳え立っているよう見えた。
何人も話し掛ける雰囲気すら与えてなかった。
物陰からその背中を見つめるケビンの心臓は、破裂しそうなほど打ち鳴らされ、掌は濡れたように冷や汗で滑り、荒い息が喉の奥で詰まる。
(行った……)
◆◇
馬車の扉が重々しい音を立てて閉まり、車輪が石畳を打ち鳴らして走り出した瞬間、ケビンは身を翻した。
太陽が完全に沈み、深い闇が城を包み込んでいく。
城内の警備が交替する僅か数秒のすき間、ケビンは息を殺し壁の影の中へと滑り込んだ。
冷や汗が肌を伝い、首筋を滑り落ちる。
見つかれば即座に捕まり、二度と出られない暗闇へと放り込まれて終わる。足音がひとつ重なるたびに、血の気が引くような緊張感が全身を苛んだ。
だが、自分でも制御しきれない激しい衝動が、恐怖など欠片も残さず塗りつぶしていた。
胸の奥でメラメラと燃え上がる青い炎が、震える足を踏み出させる。
この城の地図は幸い暗殺計画のおかげで、全て頭の中に入っている。警備の配置も、見張りの視界の死角も、逃走のルートも。
暗がりの中、壁の凸凹を捉え、しなやかなバネのように高く跳び上がる。
見張りの目を盗み、冷たい夜風が吹き抜ける城の外へ――ケビンは一筋の風となって飛び出した。
着地の衝撃を静かに殺し、夜の闇の中へと深く深く潜り込んでいく。
「ウサギなんて……二度と呼ばせねぇ!」
胸元のケースを壊れんばかりに強く握りしめ、ケビンは例の男が用意した「迎え」の約束の地へと、気配を殺し急いだ。
暗闇の先で待ち受ける罠の気配に、胸の鼓動はどこまでも激しく打ち鳴らされていた。




