20.招待状
──地下訓練場の空気は、疾風と鉄の擦れ合う乾いた音で満ちていた。
「ハッ、捉えたぞウサギさんッ!」
巨漢の団員、カルロが繰り出した鋼の大斧が、空気を叩き破ってケビンの上体へ襲いかかる。丸太のような腕から繰り出される一撃は、受けて止めれば骨ごと砕かれる暴威。
だが、ケビンの表情には焦りすら浮かんでいない。
カルロの大斧が肌をかすめる直前、ケビンは両膝を折り、羽毛のように地を滑った。
巨漢の懐――その絶対的な死角へ、影のごとく滑り込む。
大斧の重さに引っ張られたカルロの体勢がわずかに崩れた一瞬、ケビンは小さく地面を蹴った。しなやかな身体を跳ね上げ、男の太い手首の関節へ自身の柄頭を叩きつける。
「ガっ……!?」
手首の痺れにカルロの大斧が滑り落ちる。その刹那、ケビンは相手の胸元を蹴り台にして宙へ躍り出ると、空中で優雅に回転しながら、演習用の剣を男の喉元へピタリと突き立てていた。
トン、と軽やかに着地する金髪の少年。
「……終わりだぜ」
静寂の後、訓練場に爆発するような大歓声が巻き起こった。
「うおあぁぁッ! 見たか今の回転!? カルロの大斧を逆手に取りやがった!」
「すげえぞケビン! 巨漢殺しのウサギさんだな!」
「ハハッ、降参だ降参! 参ったぜ、二等兵殿!」
斧を落としたカルロが頭を掻きながら笑うと、周囲の騎士たちがケビンの肩や背中を威勢よく叩く。最初は敗戦国の気取った王子と嘲笑っていた男たちが、今や一目も二目も置く仲間として、その成長と勝利を讃えていた。
ケビンは荒い息を整えながら、口元の汗を拭って不敵に笑う。
「ふん、当然だ。アーサーのヒゲを刈る前に、お前らに手こずってられるかよ」
長年培った天性のカンの良さとその身軽さ。相手の油断を誘う可憐な身構え。そして一瞬の隙を逃さず喉元を食いちぎる圧倒的なスピード。黒の騎士団という最強の砥石によって、ケビンの牙は研ぎ澄まされ、急速にその鋭さを増していた。
◇◆
だが――その地下の熱狂とは対照的に、帝国の最上階に位置する執務室には、冷徹な暗雲が立ち込めようとしていた。
バサリ、と重厚な木製ドアが勢いよく開く。
「……陛下」
滑り込んできたのは、秘書官セレスだった。常に完璧な身だしなみを崩さず、いかなる緊急事態でも優雅な微笑を絶やさない男の額に、冷や汗が浮かんでいる。呼吸すらわずかに乱れていた。
デスクで書類に目を通していたレオナルドが、静かにペンを止めた。
「……珍しいな、セレス。お前がそのような顔で駆け込んでくるとは」
「笑い事ではございません……! これをお確かめください!」
セレスが差し出したのは、高級な羊皮紙に金箔の封ろうが施された一通の書状だった。差出人の紋章を見た瞬間、セレスの眼鏡の奥の瞳が激しい怒りに揺れる。
「……大公フレデリック様からの手紙です。十日後に控えた、ご自身の生誕祝賀夜会への招待状……! いくら血の繋がった実の兄、いえ……お父上であろうと……! 現皇帝であられる陛下を、己の私邸に呼び出すなど無礼千万! 万死に値します!」
「ふ……」
レオナルドは鼻で短く笑うと、背もたれに深く身体を預けた。
「ついにあの大公も、なりふり構っていられなくなったか。毒では殺せぬと悟り、直接の誘い出しに出たわけだ」
「笑っていらっしゃる場合ですか! 明らかに不穏な企みです! 断りの返書をすぐさま送ります。こんな見え透いた罠に――」
「待て」
レオナルドの静かな制止に、セレスの言葉が詰まる。
「ここで断れば、皇帝が怯えて逃げたと大公派を勢い付かせるだけだ。それに、大勢の貴族たちの眼前で、俺に直接刃を向ける度量があの男にあるかどうか……確かめてみるのも一興だろう」
「何を仰るのですか! あの『毒事件』の惨劇をお忘れですか!?」
セレスの声が不意に荒だった。滅多に見せない激昂。
「あの毒杯は警告だったのです! 今度は確実に陛下の息の根を止めにくる……! 遊びで済む相手ではないのです!」
「落ち着け、セレス」
余裕を崩さないレオナルドに対し、セレスは唇をかみ締めると、胸の懐からもう一通、赤いリボンで括られた小さなカードを取り出した。
「……問題は、それだけではございません。こちらをご覧ください」
セレスの手が微かに震えている。差し出されたカードを開いたレオナルドの視線が、そこに記された数行の金文字を追う。
『──追伸。我が愛しき弟、レオナルドへ。お前が手元で可愛がっているという、ルクシアンの可憐な人質……ケビン・コンラッド殿の同伴を心より願う。我が息子の大切な友を、この父にもぜひ紹介してほしいものだ──』
ピキッ、と。
執務室の空気が凍りついた。
温度が一気に数十度も下がったかのような激しい殺気が、レオナルドの全身から爆発的に噴き出す。茶褐色の瞳から光が消え、底知れぬ虚無と冷酷な暗黒が支配する。
美しい指先が、ケビンの名前が記されたカードを握り潰そうと力を込めた――その瞬間。
ガチャリ!
「おい、レオナルド! タバコくれよ。俺の切れちゃったんだ」
ノックもなしに扉が跳ね上がり、汗拭き用のタオルを首にかけたケビンが呑気に姿を現した。
「……ッ!」
レオナルドはとっさに手元を翻し、握りつぶしかけた招待状をデスクの書類の下に滑り込ませた。一瞬で冷絶な殺気を押し殺し、呆れた顔で眉をひそめてケビンを見つめる。
「……コンラッド二等兵。皇帝の執務室にノックもなしに入ってくるとはな。セレス、この不良王子に禁煙の手ほどきと、礼儀作法を一から叩き込め」
「ははぁ……。申し訳ございませんコンラッド様、あいにく当執務室は未成年の煙草の補給所ではございませんで」
セレスも瞬時に完璧な秘書官の笑みを貼り直し、肩をすくめて見せる。
先ほどまで部屋を埋め尽くしていた死の緊迫感が、ケビンの無邪気な乱入によって、拍子抜けするほど霧散していく。
ケビンはあからさまに不満げな顔をし、胸の前で腕を組んだ。
「はぁ? 誰が未成年だよ! ふざけんな。あんただっていつも吸ってるくせに」
ケビンは口元を生意気に歪め、レオナルドのデスクにドカッと腰を落とす。
「それに、ノックして入ってくる暗殺者がどこにいるんだよ?」
「……フン、口だけは達者だな。人質の分際で」
レオナルドは溜息をつきながら、デスクの引き出しから上質な細身の紙巻きタバコが入った銀のケースを取り出すと、ケビンへ軽く放り投げた。
「ほどほどにしとけよ。さっさと失せろ」
「へいへい。ごちそうさま、陛下」
ケビンはタバコのケースをキャッチすると、嬉しそうにニッと笑って、パタンと乱暴にドアを閉めて去っていった。
◇
……足音が遠ざかり、再び室内に静寂が戻る。
セレスの笑みが消え、元の深刻な面持ちに戻った。
「……陛下。コンラッド様を、あの夜会へ?」
「連れて行くわけがないだろ」
レオナルドの声は、地の底から響くように静かで、そして途方もなく冷たかった。
セレスは静かに胸に手を当て、深く頭を下げた。
「……御意。当日までに大公派の裏の動き、配置される私兵の数まで全て洗い出します。……ですが陛下、どうか以前のような無茶だけはなさらないでください」
「あぁ。下がれ」
「失礼いたします」
セレスが静かに部屋を退出していった。
◇
一人残された執務室。
レオナルドの口元から、完璧にコントロールされていたはずの呼吸が、わずかに荒く乱れる。
組まれた指先が微かに震え、整った眉間に深い苦痛と不快感が刻まれていた。彼は無言のまま、デスクの書類の下から大公からの招待状を引き抜いた。
『ケビン・コンラッド殿の同伴を願う』
冷徹な仮面の下で、感情を殺し続けてきた男の内に、抑えきれない煮えたぎるマグマのような激高が込み上げる。
己の命を狙われることなど、幼少期から日常だった。どんな卑劣な罠も、冷笑とともにあしらってきた。
だが――あの男(実兄)が、一線を超えて己の不可侵領域に足を踏み入れようとしている。
レオナルドはゆっくりと立ち上がると、卓上の燭台の炎へ、大公からの招待状を押し当てた。
パチパチと音を立てて紙片が黒く焦げ、赤黒い炎となって燃え上がっていく。揺らめく火の粉が、レオナルドの氷のように冷たく端正な横顔を妖しく照らし出す。
「……老いぼれが」
静かに吐き捨てられた一言には、深く暗い狂暴な殺意が凝縮されていた。
「戯れは終わりだ」
燃え尽きる灰がデスクへ舞い散る中、レオナルドは底知れぬ琥珀色の瞳を細め、恐ろしいほどに冷酷で、甘く危険な笑みを暗闇に浮かべていた。
※大公=フレデリック・オーウェンについて。公式にはレオナルドの父と公表されているが、実際は実の兄にあたる。レオナルドの出生の秘密については後に作中にて公開します。




