19.甘い誘惑
――全身の節々が、鈍い熱を孕んで重く沈む。
激しい試練の汗を洗い流し、濡れた髪のままダイニングへ足を踏み入れる。
重厚な扉が開くと同時に、上質な香木と熟成された赤ワインの濃厚な芳香がケビンの鼻腔を支配した。
テーブルの奥、深紅のベルベットの椅子に腰掛け、グラスを傾けている男――レオナルド・オーウェン。
燭台の揺らめく光が、その整った骨格に彫刻のような陰影を刻む。グラスを口元へ運ぶ一筋の無駄もない動作が、息をのむほど美しい。
「……遅かったな、コンラッド二等兵。ウサギの足でも、地下からここまで登るのに随分と時間を費やしたと見える」
氷の張った湖面を渡る風のように低い声が、静まり返った部屋に響く。
ケビンは息を呑み、固い床を踏みしめて歩み寄ると、対面の椅子を乱暴に引いて腰を下ろした。
「ハッ……犬のように呼びつけられて、慌てて走ってくると思ったのか? 期待外れで悪かったな」
「相変わらず……口の減らない奴だ」
レオナルドは薄い唇をわずかに歪め、組んだ長い脚の上に肘を置くと、指先で頬を支えた。
薄暗い光の中、底知れぬ闇を宿した瞳がケビンの全身を品定めするように捉える。
「だが……悪くない眼差しだ。昨日のような惨めな負け犬のそれではないな。アーサーの爪を少々掠め取ったか」
「掠め取る? 冗談言うな」
ケビンは食卓に置かれた冷水を一気に煽り、喉を鳴らして飲み干した。滴る水滴が顎を伝い、鎖骨へと落ちていく。
「あいつらの動きはもう見切った。副長の喉元にも刃を届かせてやったさ。言ったろ……俺はお前の後ろに立つ護衛になって、油断したお前の首を真っ先に掻き切ってやるってな」
「ふぅん……」
レオナルドの眉が静かに跳ねた。彼は優雅に立ち上がると、一切の音を立てずにテーブルを回る。
靴音が途絶えた瞬間、背後から芳醇なワインと冷ややかな香木の気配が包み込むように降ってきた。
「なっ――」
振り返ろうとしたケビンの肩を、冷たく洗練された手が上から固く押さえつける。
逃げ場を失ったケビンの耳元へ、レオナルドの掠れた吐息が吹きかけられた。
「ならば試してみるか? 今、この場で……俺の首を掻き切ってみせろ」
「……っ!」
レオナルドの低い囁きに、身体の毛穴が一斉に収縮する。
首筋に伸びてきたレオナルドの長くてしなやかな指先は、今日の激しい鍛錬で鮮血のような紫に惨めに腫れ上がったそのじくじくと痛む打撲痕を捉える。
ケビンの白い肌が一瞬にしてピンク色に染まり、冷ややかな親指の腹が吸い付くように押し当てられた。
「あ……くっ……!」
痛みにケビンの眉が跳ねた。
だが、レオナルドはその歪む輪郭を逃がさず、弄ぶようにゆっくりと、愛おしむように指先を撫で滑らせていく。
肌を擦る冷たい体温と、痛打された肉の熱が混ざり合い、媚薬のごとく痺れ背筋を駆け上がった。
レオナルドの指が、ふっと離れた。
安堵の息を漏らしかけた瞬間、その紫の傷跡へ、レオナルドの唇が吐息とともに滑り落ちてきた。
触れ合うか触れ合わないかの、苛立たしいほどの距離。冷ややかな唇の体温と、甘いワインの香りを孕んだ熱い息が直接肌を撫でた瞬間──
ケビンの全身から血の気が引いた。
「ッ――!?」
氷の刃を突きつけられたような唐突で妖艶な接触に、ケビンの背筋を凍てつく冷汗が駆け抜けた。
全身の血が巻き戻る感覚に捉われ、指一本動かせず硬直してしまう。
「やめろッ……!」
突き動かされるように叫び、ケビンはレオナルドの手を強引に振り払った。
そのまま昂ぶる感情のまま、右手を翻してレオナルドの端正な頬へ、思い切り打ち据えようと振るい下ろす。
パシッ――!
乾いた音が室内を叩いた。
だが、届く直前でケビンの細い手首は、レオナルドの鉄の万力のような握力に捕らえられていた。
「な……ッ!」
「せっかくのお愉しみの時間が台無しじゃないか。リトルバニー」
空中で完全に動きを封じられた。押し殺した力で手首を固定され、ケビンは身動き一つ取れなくなる。
見上げる視線の先レオナルドの眼光は、今のこの状況を愉しむかのような不敵な笑みを浮かべていた。
抗おうと手首を捩じるが、びくともしない。
その恐怖と屈辱に血が上るケビンの目の前で、手首を掴んだままのレオナルドが、再びその顔を寄せてきた。
薄い唇が、再びケビンの首元の紫の傷跡へとゆっくりと近づいていく。
「っ……あ……」
先ほどまでの冷酷な刃のような感触とは一転し、至近距離で漂う男の洗練された香気と、妖艶な微笑みにケビンの胸が苦しいほどに締め付けられ、吐息が喉の途中で止まった。
触れられるか触れられないかの距離で、レオナルドの唇が止まる。
甘い痺れが熱病のように全身の神経を駆け巡り、ケビンは拒絶の言葉すら失って、ただその瞳に呑み込まれていた。
「お前のその殺意も、生意気な眼差しも誰一人として傷つけることすら許さん。命の最後の一滴まで、俺のものだ」
耳元で囁かれた支配の告白に、頭がどうにかなりそうなほどの焦燥と、危険すぎる胸の疼きに、ケビンは必死に呼吸を繋いだ。
憎いはずの男。殺したいはずの男。
なのに、この冷たい支配と戯れに、心が逃げ場を失って狂おしく跳ね除けられなくなっている。
「……勝手なことばかり抜かすな……狼男」
声を絞り出すのがやっとだった。ケビンは握られた手首の痛みに耐えながら、鋭い視線だけは逸らさずに睨みつける。
「俺は死なない。お前をこの手で地獄へ叩き落とすまでは……絶対にな」
「くくッ……実に良い顔だ」
レオナルドは満足そうに目を細めると、捕らえていた手首を急に手放した。
支えを失ったケビンの腕が揺れ、触れられていた皮膚に残る冷ややかな余韻に、全身が小さく戦慄く。
レオナルドは何事もなかったかのように優雅な足取りで己の席へと戻り、優美な仕草でグラスを傾けた。
「セレス」
「お呼びでございますか、陛下」
壁際の陰から、いつの間にか控えていたセレスが滑らかに姿を現す。眼鏡の奥の瞳には、二人の緊迫したやり取りを愉しむような、妖しい光が宿っていた。
「コンラッド二等兵に、極上のアイスクリームを持ってこい。……リトルバニーには、ハーブティーよりも甘い菓子の方がお似合いだ」
「畏まりました。コンラッド様のために、とびきり甘く冷たいアイスクリームをご用意しております」
「……っ! けッ……余計なお世話だ!」
子供扱いされた苛立ちと、先ほどまで胸を狂わせた危険な熱気を振り払うように、ケビンは激しく舌を打って手元の冷水を一気に飲み干した。
バクバクと胸の奥で暴れる激しい鼓動。
弄ばれた悔しさと、消えてくれない甘い痺れの正体から目を背けるように、ケビンは真っ赤になった顔を背けた。




