18.秘密基地
──昨夜は、レオナルドの冷たい手首の感触と、耳元に残る甘い熱気を振り払うようにして自室へ駆け込んだあと、知らぬ間に泥のように眠りに落ちていた。
だが、微睡みを打ち破ったのは、容赦のない朝の冷気と、全身を苛む激痛だった。
きりきりと軋む節々を押さえ、ケビンは地下訓練場への暗い階段を降りる。
冷涼な空気が支配する広大な地下空間、そこはすでに、絶え間なく鳴り響く鉄と鉄の激しい打撃音と、男たちの荒い吐息に包まれていた。
「――甘いな、ウサギさん!」
豪風が空間を爆発的に切り裂いた。
第一騎士団副長アーサー・マクベリの振り下ろした巨大な鋼剣が、ケビンの金色の髪の毛先をかすめて石畳に深々と突き刺さる。
ドゴン、と腹の底に響く重低音とともに砕け散った石片が、ケビンの頬を掠めて赤く鋭い傷を作った。
「ッぐ……あ……!」
受けることすら叶わない。
掠めた風圧だけで両腕の皮膚が引きちぎられるように痛み、足元がズリっと踏みとどまれずに滑る。
全身の打撲痕が悲鳴をあげ、視界がじんじんと赤く明滅した。
だが、ケビンの瞳の奥に宿る冷たい狂火は、消えるどころか獰猛に燃え上がっていた。
「ヘラヘラ笑ってんじゃねえぞ、ヒゲ……ッ!」
「ハッ、言ったはずだぜ! ここは王様ごっこをするおままごと場じゃねえってな!」
アーサーが巨躯を躍動させ、地面から引き抜いた大剣をそのまま横一文字に薙ぎ払う。
更なる追撃――速い。
昨日のケビンなら、その質量と速度に圧倒されてただ首を差し出していたはずだった。
だが、今のケビンには昨日からの死線の中で研ぎ澄まされた「天性のカン」があった。
(先を読むんだ。動け……! 踏み込みの瞬間の右膝の沈み、肩の筋肉の収縮――)
刃が首筋を断ち切るコンマ数秒前、ケビンは両膝を折り、滑り込むように地を這った。
剛風が頭上を通り抜け、アーサーの銀の髪が激しく舞い散る。
(見えた……!)
空を切った大剣の重みで、アーサーの左脇腹に一瞬の隙が生じる。
ケビンは地面を蹴り上げ、低姿勢のまま相手の死角へと瞬時に滑り込んだ。
それは王族としての優雅な舞などではない。
生き残るため、敵の命を最短で刈り取るための冷徹な殺気の突きだった。
演習用の鋼剣が、アーサーの頸動脈めがけて一閃する――!
「──なっ!?」
アーサーの眼光が一瞬鋭く跳ねた。
間一髪、アーサーは大剣の柄頭を強引に割り込ませ、ケビンの剣先を弾き飛ばした。
ズガンッ!!
甲高い金属音が地下空間に激しく響き渡り、火花が二人の顔を鮮やかに照らし出す。
至近距離で互いの荒い呼吸と、熱い汗の匂いが混ざり合う。
ケビンの突き刺すような冷酷な殺気を受け止めながら、アーサーの厳めしい顔が、じわじわと獰猛な笑みに歪んでいった。
「……ハッ! いい目になりやがったじゃねえか、二等兵! いまの滑り込みと殺気……文句なしの合格だ!」
「ハッ……ふざ、けるな……。次はその無駄に太い首、根元から削ぎ落としてやる……!」
ケビンは肩で激しく息を吐きながら、生意気に口の端を釣り上げて見せた。
その瞬間、周りでかたずをのんで見守っていた男たちから、爆発するような怒号と歓声が沸き起こった。
「おいおい見たかよ! あいつ、副長の喉元にマジで刃を届かせかけやがったぞ!」
「やるじゃねえか小僧! ただの気取った仔ウサギちゃんかと思ってたら、とんでもねえ毒ウサギだ!」
「ギャハハ! 副長が冷や汗かいてやがる! メシがうまいぜ今日は!」
ドカドカと足音を立てて寄ってきた黒の騎士たちが、容赦なくケビンの背中や肩を叩いていく。
激痛にケビンは顔をしかめたが、その手に込められた乱暴な熱量に、息をのんだ。
そこには、敗戦国の元王子を嘲笑う陰湿さも、上辺だけの気取ったお世辞も存在しなかった。
ただ純粋に、圧倒的な強者に臆さず刃を突き立てた「一人の男」に対する、剥き出しの敬意と熱狂だけがあった。
「てめえら、やかましい! 訓練に戻れ!」
アーサーが怒鳴り散らすと、騎士たちはケラケラと笑いながら散っていった。
アーサーは大剣を背の鞘に収めると、冷えた水が入った革袋をケビンへ無造作に投げつけた。
「ほらよ、飲め。……へっぴり腰のウサギさんは返上させてやる」
受け取った水袋から勢いよく水を煽り、首筋へ滴らせながら、ケビンは周囲で剣を交える男たちを睨みつけるように見回した。
「……なぁ、副長。一つ聞かせろ」
「あぁ?」
「あいつら……本当に『黒の騎士団』なのか? 帝国の最高機密で、皇帝の最精鋭なんだろ? なんであんなに気取りがなく、貴族の気品も、洗練された騎士の型も……何一つ見当たらない」
ケビンの問いに、アーサーは呆れたように肩をすくめ、地面にどかと腰を下ろした。
「ハッ、当たり前だろ。型にハマった美しい騎士道なんかで飯が喰えるかよ。……おい、カルロ! お前、ここに来る前は何やってた!」
近くで大斧を振るっていた大柄な男が振り向き、白い歯を見せてニッと笑った。
「俺か? 俺は隣国の境界で盗賊団の頭やってたぜ! 飢えて死にそうだったから奪って食ってたんだ! ガハハ!」
「向こうで弓を握ってる奴は戦災孤児で路上生活者、あっちの足の速い奴は旅芸人の一座を叩き出された無一文だ。俺みてえに先祖代々騎士の家系なんてのは、うちじゃ珍しい部類なんだよ」
「……は?」
ケビンは水袋を握りしめたまま、絶句した。
「元盗賊に……孤児……? そんな奴らが、なぜこの帝国の心臓部にいる? なぜ最高機密の部隊として、皇帝の喉元を守っているんだ……!?」
「簡単な話さ」
アーサーは真顔になり、己の太い腕を誇らしげに叩いた。
「この部隊に身分も、血統も、過去の泥汚ればかりの生い立ちも関係ねえ。必要なのは……圧倒的な強さと、己を捧げる覚悟だけだ。どんなドブネズミだろうが、腕と忠義さえありゃあ一番上まで上がれる。……その場所を作り、俺たちに誇りをくれたのが、他でもないレオナルド陛下だ」
ドクン、とケビンの胸の奥が激しく脈打った。
(あの男が……身分も過去も問わず、ドブネズミすらも対等に信頼して、自らの影として従わせている……?)
脳裏に浮かぶのは、冷酷無比でどこまでも腹が読めない絶対王者の顔「氷の皇帝」の姿。
だが、ただ恐怖と権力でひれ伏させているのではない。
この荒くれ者たちが、自らの意思で命を投げ出すほどの圧倒的な器と、底知れない統治者としての懐の深さ……
殺したいほど憎いはずの男。
いつかその首を掻き切ってやると固く誓ったはず。
なのに――その男が作り上げたこの圧倒的な世界の熱気に、ケビンの心が抗いようもなく突き動かされ、激しく揺さぶられていた。
◇
「おい、ウサギさん。ボーッとしてんじゃねえ!」
アーサーが再び大剣を引き抜き、獰猛な笑みを浮かべて構えた。
「まだ訓練は終わりじゃねえぞ! 次はさっきの滑り込み、十回叩き込んでやる!」
「……フン、望むところだ!」
ケビンは口元の汗を腕で拭うと、柔らかな金色の髪を揺らして再び剣を構え直した。
鉄と汗と血の匂いが充満する空間で、ケビンの胸の奥には、今まで味わったことのない熱い鼓動が脈打っていた──




