13.黒い悪魔(1)
──レオナルドが去った後の廊下には、熱を持ったままの腕の感触だけが残されていた。
「……クソっ……あのエロジジイ……!」
ケビンは真っ赤になった顔を隠すように悪口を吐き捨て、自分の手首をぎゅっと強く握りしめた。
『本気で俺の命を奪いたいなら、正々堂々と力をつければいい』
耳元で囁かれたあの低い声が、頭の中で何度も何度も響きわたる。
完全に馬鹿にされていた。手のひらの上で転がされているのは間違いない。
だが──悔しいことに、レオナルドの言ったことは揺るぎない事実でもあった。
どれほどコソコソと暗殺を企てようと、あの男の圧倒的な強さと鋭い観察力の前には、子供のごっこ遊びみたいに簡単に握りつぶされてしまうのだ。
(見下されたまま……終わってたまるかッ!)
胸の奥で煮えくり返るような悔しさが、暗い火となって燃え上がる。
かつて自分が過ごしていた王城のあたたかな日々、そしてそれが一瞬で奪い去られたあの地獄のような光景が脳裏を駆け巡る。
冷酷な目をした男にすべてを奪われ、挙げ句の果てに命すら弄ばれている現状。そのすべてに対する激しい憤りが、ケビンの心を支配していく。
「正々堂々、か……。後悔させてやるぞ、レオナルド……!」
自分の不甲斐なさに歯ぎしりしながら、ケビンは固く拳を握りしめた。
◇◆
数日後。ケビンは案内役のセレスの後ろについて、城の奥深くに向かって静かに歩いていた。
重い石造りの廊下を通り抜けるたびに、周りの静けさは増していき、空気もだんだんと冷たく張り詰めていく。
壁に飾られた絵画や華やかな装飾品は姿を消し、あからさまに「城の裏側」へと足を踏み入れているのだと肌で理解できた。
(……おかしいな)
ケビンは歩きながら、ふと眉をひそめた。
以前、一度だけセレスに連れられて見学した練習場がある。そこも城の練習場としては信じられないくらい広く、道具も全部揃っていた。
だが、今歩いている道は明らかにあの場所とは違う。城の一番深い場所へと向かっていた。
(あの時も……ずっと違和感があったんだ)
ケビンの頭の中に、どうしても消えない疑問が浮かび上がってくる。
かつてケビンの母国であり、豊かで美しい風景に恵まれていたルクシアン王国。
いくら長年の平和で軍隊が弱くなっていたとはいえ、国を守る兵士はたくさんいたのだ。それなりの訓練も受けた者たちだ。
それが──シュナイゼル帝国軍の手によって、文字通り「一瞬」で倒された。
世界中を恐怖に陥れ『黒い悪魔』と恐れられる軍隊。その頂点に立つ死神、レオナルド・オーウェン。
だが、以前見学した練習場にいた兵士たちや、そこで剣を交えた相手の動きを思い出してみても……確かに強いことは強いが、一国を一晩で滅ぼすほどの恐ろしい圧迫感や、世界を恐怖に陥れるほどの凄みは感じられなかったのだ。
(あの程度の強さで、ルクシアンの兵士たちが手も足も出ずに負けたというのか……? そんなはずがない。何かがおかしい……俺が見ていたのは、本当に帝国の『本気』だったのか……?)
自分の中で問いかけを繰り返し、険しい顔で考え込むケビン。その様子を、前を歩いていたセレスが目ざとく気づいた。
セレスはふっと足を止めると、優雅に振り返り、パッと花が咲くような上品な笑顔を浮かべた。細い首に美しい黒髪が揺れる。
「コンラッド様。……何か不思議に思っていらっしゃいますか?」
「……っ」
心の中を見透かされたことに驚き、ケビンは咄嗟に口をつぐんだ。
しかしセレスは、その柔らかな顔立ちに申し訳なさそうな苦笑いを浮かべて続けた。
「ふふ、無理もありません。……以前、あなたが見た騎士たちは、まだ入隊したばかりの『見習い騎士』の若い兵士ばかりだったのですよ」
「……は……?」
ケビンの時間が止まった。
セレスは困ったように小さく首を傾げてみせる。
「一応……コンラッド様は敵国の王子様でしたからね? 帝国の本当の戦力をお見せするわけにはいかなかったのです」
「な……ッ!?」
頭の中で、何かが弾け飛んだ。
あの時、自分が「帝国の兵士とも互角に戦えた」と少しだけ自信を持っていた手応え。
あれは全部、相手がまだ未熟な見習い兵だったからに過ぎなかったというのか。
(あのクソ皇帝が……っ!! どこまで俺を舐めくさってやがる……ッ!!)
胸の底から湧き上がる激しい怒りに、視界が真っ赤に染まる。
どこまでも本心を見せず、自分を道化師のように踊らせていたレオナルドの不敵な笑みが頭に浮かび、歯をくいしばった。
ケビンは震える拳を握りしめ、セレスに向かって思い切り怒りをぶつけた。
「元、だけどなッ! おたくの狂人エロ皇帝に片手で一瞬にして握りつぶされた、弱小国家の生き残りの人質相手に配慮なんかしてんじゃねぇよッ!」
大声で叫んだケビンの声が、静かな石造りの廊下に響き渡る。
かつて自分の国であるルクシアン王国が滅ぼされたあの日、城中に響き渡っていた悲鳴と炎の記憶が、脳裏をよぎる。
王城の広い広間で、目の前で兵士たちが次々と倒されていった光景。
その中央に立っていた黒い閃光。狂おしいほどの美しさに思わず自ら跪いた。
それはただの命乞いだけの瞬間ではなかった。
──ずっと待っていた心踊るシーンに、言い表せない快楽を得た瞬間だったのだ。
しかし、セレスはその叫びを聞いても一切動じることなく、クスリと楽しそうに微笑むだけだった。
そして次の瞬間──セレスの笑みが、すっと消えた。
その優しい目から感情が消え、冷たく静かな、恐ろしいほど真剣な顔つきへと一変する。
「……コンラッド様。冗談はそこまでにしてください」
静寂が二人を包み込む──
セレスの口から出た言葉は、低い音となってケビンの耳に響いた。
「レオナルド・オーウェン陛下が、『黒の騎士団真の姿』を外部の者にお見せになったことは、これまで一度たりともございません。その意味がお分かりかな?」
「……っ!?」
ケビンは息をのんだ。
セレスのその一言が持つ、あまりにも大きくて、恐ろしい意味。
外部の人間には決して見せない帝国の最深部。決して表舞台には出てこない、本物の『黒い悪魔』たち。
そして今──レオナルドの許可によって、自分はその開けてはいけない扉の前へと導かれているのだ。
(あいつは……俺に、本物の『毒』を見せる気か……!?)
「さあ、お入りください。ここから先が……あなたが挑むべき、本当のシュナイゼル帝国です」
セレスが静かに手をかざした先。
そこには、見たこともないほど大きくて重そうな鉄の二重扉が立ちはだかっていた──
◇◆
重い鉄の扉が、ゴゴゴ……と鈍い音を立ててゆっくりと開かれていく。
その隙間から漏れ出てきた空気を感じ取った瞬間、ケビンの全身に鳥肌が立った。
「ぐ……っ!?」
あまりの圧迫感に、ケビンは思わず足をとめ、息をのんだ。
吹き抜けてきたのは、ただの冷たい風ではない。血と鉄の匂い、そして無数の死線をくぐり抜けてきた者だけが持つ──目に見えるような『殺気』の固まりだった。
扉が完全に開ききると、そこに広がっていたのは、天井がどこにあるかもわからないほど広大な地下の練習場だった。
外の明るい太陽の光は届かず、壁に取りつけられた松明の炎がゆらゆらと揺れている。
そこで剣を振るう者たちの気配を感じた瞬間、ケビンは言葉を失った。
(な……んだ、これは……っ!?)
そこにいたのは、以前見た見習い兵たちとはまるで違う者たちだった。
無駄な動きが一つもなく、研ぎ澄まされた刃物のような動き。
剣と剣がぶつかり合う音が響くたび、空気が目に見えて震えるほどの踏み込み。
互いに放つ殺気は本物で、一歩間違えれば命を落とすような命がけの訓練が、当たり前の日常として行われていた。
一目見ただけでわかる。
これが──ルクシアン王国を一瞬で飲み込み、世界を恐怖で塗り替えた『黒い悪魔』の正体。シュナイゼル帝国騎士団の最精鋭たち。
(俺は……こんな化け物たちと……戦おうとしていたのか……!?)
あまりにも圧倒的なレベルの違いを見せつけられ、ケビンの足がすくみかける。
自分がこれまで抱いていた復讐心やプライドが、まるで子供のごっこ遊びだったと思い知らされるような絶望感。
その静けさと緊張感を破るように、ズシン、ズシンと重い足音が近づいてきた──
(何者!?)




