第9話 魔女の塵払い
居酒屋『パラレル・ライン』。
夜の営業準備、静寂を切り裂いて理外の存在がその暖簾をくぐっていた。
静まり返った店内に、カラン、と場違いなほどに軽やかで涼しげな鈴の音が響き渡る。
カウンターの奥で、間もなく始まる夜の営業に備えてグラスを磨き、おしぼりを整えるなどの開店準備をしていた陽菜が、「おや?」と怪訝そうに顔を上げた。
そこに、いつの間にか滑り込むようにして座っていたのは、一人の妙齢の女性だった。
厨房では、マスターが夜の仕込みの手を止め、鋭い視線をその背中に向けている。
見た目の年齢は20歳から22歳ほど。
瑞々しく滑らかな肌と、どこか異国の夜を思わせる、憂いを帯びた美しい容姿。
けれど、その身に纏う空気は普通ではなかった。
一瞬見ただけで、実年齢が優に500年を超えていることを直感させるような、悠久の歴史の深みと、嵐の前の凪のような圧倒的な静けさを湛えていた。
「いらっしゃいませ。……あの、恐れ入ります、当店はまだ開店前なんですけど……」
陽菜が戸惑いと、本能的な警戒心を滲ませながら声をかけると、その女性は、子供がいたずらを思いついたかのように、ふっとお茶目に微笑んだ。
「ごめんなさいね。依頼を受けて、急いで飛んできたの。――ねぇ、ビットちゃん。お掃除の場所はここ(地下)でいいのかしら?」
「え……?」
陽菜が困惑するより早く、奥の引き戸が静かに開き、ビットが足早に姿を現した。
ビットはその女性の顔を見るなり、敬意を込めて深く頭を下げた。
「――篝様。急な要請にもかかわらず、これほど迅速にお越しいただき、心より感謝いたします」
「ビットちゃん、前に地球で会ったときは猫だったよね。『ビット』ってかわいい名前までついちゃってて。ふふ、今はその恰好なんだね。よく似合ってるよ、とっても可愛い」
魔女・沙藤篝は、ビットが今その身に宿している「美しい黒人女性の肉体」をじっと見つめ、すべてを察したように優しく、どこか楽しげに目を細めた。
本来の名を持たぬ高位の存在であり、かつては四足歩行のしなやかな獣の器で気まぐれに実数世界を歩いていた彼女が、なぜ今回はこの器(肉体)を選び、人間の男が名付けた記号を大切に受け入れ、この居酒屋に留まっているのか――その胸の内にある愛着と変化のすべてを、大魔女は見通して微笑んでいた。
「いいのよ、ビジネスなんだから。はい、これ、いつものやつね」
篝は懐から、まるでどこかの清掃業者のような年季の入った「叩き」と「雑巾」を引っ張り出してみせた。
彼女は魔法によって世界線を超える「渡り」を可能にする文字通りの大魔女であったが、同時に頑ななまでの「掃除屋」でもあった。
それ以外の戦闘や交渉といった依頼は、どれほど対価を積まれようとも一切引き受けない。
だが、その代わり「境界の塵払い」に関してだけは、彼女の右に出る者はマルチバースのどこを探しても存在しなかった。
「光栄でございます。さあ、こちらへ。いずれ訪れる本番の運用に向け、転送機と地下室そのものの調律をお願いいたします」
ビットの案内に従い、篝はカウンターの脇を抜け、地下へと続く重い扉を開けた。
陽菜は動きを止めたまま、その背中を見送るしかなかった。
なぜなら、すれ違いざまに魔女の黒い瞳が陽菜の身体の奥底――さきほどリミッターを解除したばかりの、暴発寸前で渦巻いている高密度な「白い奔流」を、一瞬にして正確に透視していったからだ。
「あら……? あなたも魔法使い? んー、でも、なんか波長が違うね。……あぁ、なるほど。これは『霊力』だ。ずいぶんと分厚くて、お行儀のいい、綺麗な力」
それだけ言い残して地下へ下りていった若い女。陽菜の背筋に、ドクン、と冷たい衝撃が走った。
(な、な、なにこの子。……なんで私の力のことがわかるの!?)
額にじっとりと嫌な汗がにじみ、陽菜の全身が硬直する。
上京して以来、東京の誰一人として見破ることのできなかった長沢家の血脈を、目の前の女は、まるで道端の雑草の種類でも言い当てるように、あまりにも容易く口にしたのだ。
その頃、重苦しいコンクリートの地下室へと下りた篝は、剥き出しの配線や精密回路が並ぶ高次元転送装置の前で、おもむろに白く細い手を空間にかざしていた。
彼女が雑巾で機械の表面をさっと拭い、叩きを空間にひと振りするたびに、目に見えない次元の塵――世界線が交差する際に生じる空間の細かな歪みや、航路の致命的なノイズが、まるで熟練の職人が煤を払い落とすように、サラサラと綺麗に消滅していく。
その、あまりにもあっけなく、けれど絶対的な「掃除」の光景を見つめながら、ビットは今回の救出作戦の背景を打ち明けた。
「篝様の魔法によって、翠松町へと続く航路の次元ノイズは完全に『ゼロ』へと調律されていきます……。これならば、来るべき作戦でスカラーの理に突入しても、空間の捩れに押し潰されることはありません。ですが……地上では、あのモノリスの出現に伴う騒動から生まれた過激な崇拝派が不穏な動きを見せており、非常に予断を許さない状況なのです」
「ノア……とかいう科学者のアバター奪還の話? 悪いけど、私、掃除以外の揉め事には一切関わらないからね」
篝は機械のノイズを払いながら、事も無げに、実につまらなそうに言った。
500年以上を生き抜き、無数の世界と因果を渡り歩いてきた大魔女にとって、人間たちの小競り合いなど、知ったことではなかった。
だが、篝はビットの口から出た「モノリスの騒動」という単語に、ふと何かを思い出したように、悪戯っぽく唇を吊り上げた。
「あぁ、でもあれなら覚えてるよ。前に死んだはずの女の人が急に帰ってきたとかで、世界中の政府や軍、それに倫理の仮面を被った狂信的な宗教団体までが、ヒステリックになって金切り声を上げて大騒ぎしていたでしょう? あの時ね、たまたま私、退屈しのぎにこっちの地球に遊びに来てたんだけど……。世界中から湧き上がる人間の強欲な好奇心と、恐怖の波長が、もう、耳障りで耳障り。とにかくノイジーだったのよね。私の優雅な休暇が台無し」
「……まさか、あの不自然なほどの急速な世界の熱狂の収束は……」
ビットがゴクリと息を呑むと、篝はパタパタと装置の裏側の埃を払う動作のまま、まるでお天気の話でもするかのように、お茶目に微笑んだ。
「うん。あんまりうるさいから、魔法でちょいっとね。人間の関心を強引に別の方へ逸らして、世界中の認識を書き換えて騒ぎを収めちゃったの。『モノリスなんて人知を超えたものが出現したんだから、死人が一人生き返るくらい不思議じゃないよね』って、みんなが脳内で勝手に納得して、諦めるようにね」
さらりと告げられた、人知を遥かに超えた規格外の事実。
誰かを憐れんで救うためではなく、ただ「世界のノイズが自分にとって不快だったから」という、あまりにも理外で絶対的な理由だけで行われた世界規模の精神改変。
さしもの高次元の存在であるビットも、一瞬だけ全演算回路が完全にフリーズしたように、言葉を失って立ち尽くした。
「……ま、そんなわけだから、その崇拝派?とかいう子たちの術がどれだけ小賢しくても、私にはみみっちくて関係ないお話。それよりも、翠松町、ね。あそこは、色んな人の強い想いが混ざり合う、とても優しい、けれど……とっても危うい街」
篝はすべての塵を払い終えると、道具を仕舞い、ビットの瞳を真っ直ぐに見つめて、確かな道標を告げた。
「もし翠松町へ行ったら、『ヴァイオラ』と『闇雲』(やみくも)という子を訪ねなさい。二人を頼れば、きっとあなたたちの大きな力になってくれるよ。……あと、その周りにいる何人かもね。私の名前を出せば、どんな無茶な願いだって聞いてくれるハズだから」
「ヴァイオラ様、と、闇雲様……」
ビットはその音節を、一文字も零さぬよう深く演算回路の最優先セクターへと刻み込んだ。「ありがとうございます、篝様。完璧なお仕事でした」
「いいのよ。私はただの、お掃除係だから」
篝は満足げに微笑むと、役目を終えた影のように、輪郭を朧気にしながら、再び空間へ溶けるように姿を消した。
その後に残された地下室と転送装置は、驚くほどに透明で澄み切った、翠松町へと真っ直ぐに繋がる完璧な「航路」の座標を指し示していた。




