第10話 試運転の怪異
篝が去った直後の地下室。
カーネルとの壮絶な交渉を終えた彼女の意識が、現実世界へと帰還した。
彼女の精神がトリガーとなり、異空間のストレージに保管されていた肉体が呼び出され、空間に満ちる光の粒子を急速に吸引しながら、再びその場に完全な質量を持って、人間たちから『デジット』と呼ばれる銀髪の少女の姿を「再受肉」させる。
「通したぞ……! カーネルの頑固なシステムをねじ伏せた! 奴、今回のスカラー強襲を公式任務として承認しやがった! 零の魂に縛られた最後の『残り1回』の契約、この作戦の成功をもって、綺麗さっぱり完全満了させてやる!」
彼女が現実の肉声で勝ち誇ったように叫ぶ。
その隣には、驚天動地の方法で合流を果たしたレイイチの姿もあった。
彼は、器を保管する異空間を持つデジットとは違い、その都度、肉体を生成せねばならない。人間が多く住む地上では物質を吸収する際に周囲を破壊してしまうため、東京湾の遥か洋上――完全に人目を避けた荒天の海上で、周囲の膨大な海水と大気成分を媒介にして、猛烈な水竜巻のごとき暴風を起こしながらその肉体を急ピッチで「セルフビルド」していたのだ。
地上では「突如として海上に巨大な謎の竜巻が発生した」と気象台が大騒ぎしている中、彼は海上でばっちり受肉を完了させると、自らの『身体を透明にする能力(不可視化)』を発動。
誰の目にも触れぬよう完全に姿を消したまま東京の街を駆け抜け、この地下室へと何食わぬ顔で実体を持って戻ってきたのである。
「完璧なタイミングです。デジット、それにレイイチ」
空間の最終調整を終えたビットが、新調された制御パネルにその指先を走らせる。
次の瞬間、彼女の美しい褐色の身体もまた、装置の駆動エネルギーと完全に同化するように、サラサラと眩い光の粒子へと還っていった。
彼女の肉体そのものが、この地下室の空間全体を覆う巨大な演算回路として機能し始めたのだ。
「篝様の手によって、翠松町へと続く航路の次元ノイズは完全に『ゼロ』に調律されています。……これより、今後の本格的な作戦運用に向けた、高次元転送装置の試験起動を行います」
ズウウン、と地底から響くような重低音とともに、地下室にかつてない純白と深青の極光が爆ぜる。
デジットの放つ『神隠し』の異能と、粒子化して空間を満たすビットの回路。
純粋な高次元のエネルギーだけが激しく共鳴を起こし、何もない空間の真ん中に、バリバリと空間を引き裂くような音を立てて、実験的な「境界の裂け目」がその禍々しい口を開けた。
実数世界と虚数世界の狭間が、試運転の出力でありながらも正確に穿たれていく。
あとは今後の準備段階を経て、司令塔である壱や他の人間メンバーが揃ってから、この門を本格駆動させてそれぞれの戦地へ跳躍するだけ――その、航路の安定性データを最終確定しようとした、まさにその刹那だった。
キィィィィン――と、鼓膜を鋭く刺すような、おぞましい高周波の警報音が地下室に鳴り響いた。
テスト起動で安定していたはずの転送の光の「向こう側」から、あり得ない方向へのエネルギーの逆流――凄まじい因果の逆流の突風が吹き荒れ、地下室のコンクリートの壁を激しく叩きつけたのだ。
ビットの制御パネルがパチパチと制御不能なエラーログを吐き出し、過負荷で派手な火花を散らす。
「!? 馬鹿な、あり得ません! まだ誰も跳んでいない、ただの試験起動のゲートなのに……何者かが、境界の向こう側……はるか遠い時間軸の先からこちらの座標を逆探知して、この転送ゲートを無理やり力技でこじ開けてくる……!?」
空間そのものと化しているビットの、驚愕に引き裂かれた声が地下室に木霊する。
完璧に制御されていたはずの光の裂け目が不自然に歪み、のたうち回り、指示された座標ではない「未知の時空」と強引に直結していく。
一階の厨房で、異変を察知したマスターが手を止め、カウンターにいた陽菜が「マスター、地下が変です!」と顔をこわばらせる。
そして――その地下室の光の深淵から、一つの影が、泥濘から這い出るようにしてこちら側の現実へと滑り込んできた。
逆光の、目を焼き切るような眩しさの中に浮かび上がるのは、誰も想像し得なかった、けれど圧倒的な、世界を押し潰すような存在感を放つ人影。
デジットの瞳が驚愕で灰色に跳ね上がり、レイイチの全身の回路がバチバチと激しい拒絶のノイズを上げる。
高位の存在である彼らの超感覚が、その乱入してきた影が纏う「この時間軸に存在してはならない、あまりにも巨大な未来のノイズ」を感知し、本能的な恐怖とともに猛烈な警鐘を鳴らしていた。
光の向こう側から、因果を、時間を、あらゆる物理法則を容赦なく踏み越えて強行介入してきたその未知の存在は、ゆっくりと、けれど確かな質量を伴って、地下室の冷たいコンクリートの床へとその足を踏み下ろした。
まばゆい極光の嵐が、嘘のようにゆっくりと収束していく。
その激しい光のベールの向こうから、完全にこの「現実」へと受肉したその人物の輪郭が、世界の命運を塗り替えるかのように、静かに浮かび上がろうとしていた。




