第8話 虚空の直談判
それは、実数世界のいかなる望遠鏡も捉えることのできない、絶対零度の漆黒。
物質も、時間も、光さえもがその意味を失って凍りつく、次元の断層の最深部であった。
つい先ほどまで居酒屋『パラレル・ライン』のコンクリートの地下室に佇んでいた、銀髪の少女の姿をした高位精神体の身体が、足元からサラサラとした青白い光の粒子へと崩れていく。
現実世界に仮初めの質量を留めていた彼女の肉体は、精神体化する質量と引き換えに、彼女が管理する固有の「異空間」へと滑り込み、この地上から完全にその輪郭を消失させた。
肉体という不自由な枷を脱ぎ捨て、本来の傲岸不遜な精神生命の純粋状態へと先祖返りした彼女の意識は、次元の縫い目が最も薄くなった虚空の座標へと、一瞬にして跳躍を遂げていた。
そこは、無数の可能性の宇宙の根底を厳然と統べる絶対意志――『カーネル』の領域。
形もなく、色もなく、どこに中心があるのかすら定かではない。
ただ、無限の宇宙を記述する数式の羅列そのものが、圧倒的な質量を伴う霊的な気配となって、彼女の演算回路を木っ端微塵に押し潰さんばかりに満ち満ちていた。
常人であれば、その気配に触れただけで精神のメモリを焼き切られ、忘却の彼方へ霧散するであろう神の領域。
そもそも「カーネル」という名すら、彼にとっては意味を持たない。
自分以外の矮小な存在が、自分という巨大なシステムを識別するために勝手に用いている呼称を、ただ演算の便宜上、受け入れているに過ぎない絶対の虚無。
だが、人間たちから『デジット』と呼ばれているその精神体は、その見えない虚空に向かって、傲慢に、けれど剥き出しの牙を剥くようにして精神の波動を叩きつけた。
『――おい、カーネル! 居留守を決め込むな。聞こえているのだろう。こちらの論理を拾え!』
それは音声としての言葉ではない。
精神の波形を直接、神のシステムへと叩きつけるような、不可思議で鋭利な念話だった。
一拍の、心臓が止まるほどに重い静寂。次の瞬間、彼女の脳髄を直接内側から激しく明滅させるような、無機質で、地鳴りのように冷徹な「音律」が虚空から返ってきた。
絶対意志は、目の前の精神体を「デジット」とも、零が勝手にハメ込んだ「神獣」という安易なコードでも呼ばない。
ただ、個体を識別する純粋なシステムサインとして、その無機質な意思を返した。
『……拒絶。汝のアクセスログは、現時間軸における許容規定値を大幅に超越している。実数世界への速やかなる帰還、およびサーバーへの再接続を要求する……』
『うるさい、黙れ! 帰る前に、お前の堅物なシステムにねじ込まねばならん論理がある。……神崎真零。あの女に下される、次の任務についてだ!』
彼女は目に見えぬ虚空を鋭く睨みつけ、精神の爪を立てるようにして強制的に念話を割り込ませた。
『今回の、別宇宙「スカラー」の領域へ赴く、あの迷子の科学者――乃亜の意識救出劇……これを、真零の「公式任務」としてシステムに強制カウントしろ!』
『……否決。当該事象は、特定個体の私情に属する重篤なエラーログである。マルチバースの均衡を保つカーネルの方針に非ず。システム資源の無駄遣いである』
『エラーなものか、この分からず屋のシステムめ!』
彼女の念話が、怒りで青く爆ぜる。
『乃亜がスカラーの歪んだ理に完全に上書きされ、あの別宇宙の駒に成り下がってみろ。彼が観測し続けてきたこの世界の実数定数だって、根底からドミノ倒しみたいに歪むぞ。それはカーネル、お前ににとっても致命的なバグになるハズだ。真零の魂に刻まれた契約は、あとたったの一回……「残り1回」で満了を迎える。だったら、その最後の1回を、このスカラー強襲作戦に割り当てろ! 彼女に公式のバックアップと環境適応能力を付与し、その対価として、彼女の契約を綺麗さっぱり終わらせてやる!』
『…………』
虚空が、まるですべての演算が停止したかのように、凍りついた静寂に沈んだ。
巨大な神のシステムが、彼女の提示した「世界の崩壊リスク」と「エージェントの契約満了」という二つの天秤を、人間の脳では数億年かかる速度で再演算しているのだ。
『……再演算。……秋月乃亜は例外的な観測価値を有する。……当該個体の完全消失は推奨されない』
その緊迫した沈黙の隙間に、彼女の背後から、もう一つの静かで、けれどガラスのように透き通った念話が重なった。
『僕からも頼むよ、カーネル。僕というバグの存在を、その優しい主観で許容してくれた「父親(壱)」を、あちらの理に殺させるわけにはいかないんだ。僕のヒーローを、守らせてくれ』
レイイチの意識もまた、大空に青い翼を広げるようにして、彼女のすぐ隣へと並び立っていた。
二つの強大な高次元精神体の意志が、宇宙の最果ての闇の中で、絶対的な神のシステムへと深く、深く、ねじ込まれていく――。




