第7話 観測者のディソナンス
夜の静寂に沈む居酒屋『パラレル・ライン』。
かつて乃亜の装置は1階事務室の奥に秘匿されていたが、2026年2月の居酒屋崩壊を経て再建された新生『パラレル・ライン』では、地上の喧騒を拒絶する地下深くへとその聖域を移設している。
新調されたコンクリートの匂いと、ビットの手によって磨き上げられた旧世代の電子部品の香りが混ざり合う。その地下室で、ビットが制御パネルに褐色の指先を走らせた。
「……計算が、完全に噛み合いました。デジット、あなたのパスしたデータは、今のこの瞬間、私たちの世界と翠松町の距離が、指先が触れ合うほどに近接最大化することを指し示しています」
ビットの声は、凛としていながらも、どこか祈りに似た熱を孕んでいた。
「これならば、デジットの異能『神隠し』を、私が再定義したこの装置が増幅し、精神だけでなく肉体(実数)ごと境界を穿つことができます。さらに……」
ビットは一瞬言葉を切り、傍らに立つマスターへ、あまりに深く、そして切実な眼差しを向けた。
「情報の剥離……つまり、あの街の因果に呑み込まれて『自分』を失うという忘却を、私の愛したこの回路が阻止します。零さんも、そしてサチさんも……大切な記憶を一つもこぼすことなく、翠松町の土を踏み、再びこの場所へ帰還できるはずです」
「任務として与えられた座標じゃない。……私たちは、私たちの意志で、あの日失われた時間を取り戻しに行く」
零が静かに、けれど強く、自らの実存を噛みしめるように、拳を自らの胸へと押し当てた。その隣でサチは、父が遺したデジカメを握りしめる。
だが、その熱を冷ますように、壱が厳しい表情でホログラムを操作した。
映し出されたのは、北の果てに鎮座する「療養所(研究所)」の構造図だ。
「救出が成功しても、この現実世界にある乃亜さんの『肉体』がハックされれば、すべては水の泡だ。モノリス崇拝派……奴らは、分裂した旧研究員たちと合流し、すでに研究所の深部へと潜り込んでいる。工作は、もう始まっていると見ていい」
「モノリス崇拝の連中は、ただの過激派じゃない」
マスターが、苦い記憶を反芻するように言葉を継いだ。
「奴らは科学の皮を被りながらおかしな『術』を使うときく。物理法則を無視した侵食、精神への直接干渉……。まともな倫理も通じない、モノリス崇拝の連中は、底知れず危険な連中だ」
方針は、二つの断層へと分かたれた。
境界の向こう側で意識を奪還する「境界渡りチーム」。
そして、北の研究所へ強行突入し、乃亜の肉体を奪還し、ビットがこの地下に、乃亜の体を受け入れるために急ピッチで整えた最新の医療設備へと移送し、守り抜く「肉体奪還チーム」。
「総指揮は、壱、あなたにお願いします。ここがあなたの『守るべき居場所』なのですから」
ビットは、乃亜が遺した古びた通信機に自らのナノマシンを融合させ、高次元改良した超次元通信機を、恭しく壱の手のひらへと託した。
「各チームの状況は、この居酒屋を拠点にあなたが管理してください。レイイチさんは境界渡りチームに帯同しながら、その自由な翼で、両チームの隙間を埋めるサポートを」
編成が、戦士の指名のように、地下室の静寂を震わせて読み上げられた。
境界渡りチーム:サチ、零、デジット、レイイチ。
肉体奪還チーム:マスター、秋山、律。
名前を呼ばれた瞬間、サチの細い指先が、父の遺したデジカメのストラップを白くなるほど強く締め上げた。
張り詰めた静寂の中、彼女は小さく息を吸い、自らの足元を見つめたまま口を開く。
「……あの、私を境界渡りチームに加えてくれてありがとう……ございます」
震えそうになる声を、胸の底から絞り出すように押し出す。
「私には、零のような力も、デジットのような奇跡もありません。ただの……何の異能も持っていない、普通の人間です。境界の向こうがどれほど危険な場所かも、私がついていけば皆の足手纏いになることも……分かっています」
サチは顔を上げた。
その瞳には涙が滲んでいたが、視線は決して揺らいでいなかった。
「でも、お父さんを迎えに行くのは……娘である私の役目なんです。誰かに連れてきてもらうんじゃなくて、私がこの手で、お父さんを連れて帰りたい。……わがままだって怒られるかもしれないけれど、私は、どうしても行きたい……どうか……よろしくお願いします。」
深々と頭を下げるサチ。
地下室に落ちた彼女の痛切な覚悟を、誰も否定することはできなかった。
その時、壁際に控えていたレイイチが、衣擦れの音も立てずに歩み寄る。
「サチ」
澄んだ、けれどどこまでも温かな声だった。
レイイチはサチの前に立つと、視線を合わせるようにわずかに腰を落とし、静かに微笑んだ。
「足手纏いとは思っていない。……僕はサチをノアの元に送り届けると、彼とそう約束したんだ」
「レイイチ……」
「僕のマントも、この胸の演算回路も、その約束を果たすためにある。何があっても僕があなたを守るから、安心して前を向いていて。一緒に行こう」
迷いのないレイイチの誓いに、サチの強張っていた肩からすっと力が抜けた。
彼女は溢れそうになった涙を指先でぬぐい、力強く頷いた。
◇
直後、秋山が、喉の奥に溜まっていた疑念を吐き出すように問いかけた。
「なぁ、素朴な疑問なんだが。デジット、君やレイイチのような高位精神体がいれば、わざわざ俺ら非力な人間が行く必要はないんじゃないか? 邪魔になるだけだろう。君がさっと行って、乃亜さんを連れて帰れば済む話だろう?」
窓際で爪を弄んでいたデジットが、冷ややかで明確な殺気を帯びた瞳で秋山を射抜いた。
「ハッ、無知とは幸福だな。いいか、今回我たちが踏み込むのは、カーネルが統べるこの宇宙の理が届く場所じゃない。そこは『スカラー』という、極めて独裁的な上位精神体が支配する別宇宙だ」
デジットの声が、地下室の空気を重く圧搾する。
「しかも、そのスカラーの膝元には、『枢』という冷徹極まりない神獣が控えている。あいつは受肉した自らの肉体から分身体を生成する『アバター量産』の使い手だ。一人で軍勢を構築し、物量で対象を圧殺する。我一人で乗り込めば、救出どころか足止めに全演算を割かれ、情報の藻屑にされるのが関の山だ。奴の注意を逸らしている間に動ける『別の意志』が不可欠なんだ」
「組織的な意志の連動……。個の力では届かない領域か」
壱が重々しく頷く。
「……もっとも」
デジットの苦虫を噛み潰したような低い声が、冷え切った地下室のコンクリート壁にじっとりと反響した。
その声音には、普段の彼女からは想像もつかないほど、生々しい苛立ちと諦念が混じり合っている。
「枢だけなら、まだ計算の範疇だ。あいつはどれほど強大であろうと、所詮は規律の犬。その行動原理も、引き連れる軍勢の統率も、冷徹な論理の糸で編まれているからな」
「まだマシ、って……」
秋山が深く眉をひそめ、額の汗を拭った。
あの、世界のシステムそのものを無尽蔵の軍勢で圧殺しかねない怪物を指して、なお「予測可能」と言い切るデジットの物言いが、かえって地下室の空気をぞっとするほど不穏に歪めていく。
デジットは秋山の問いにはすぐに応えず、ただ露骨に顔をしかめ、指先で無機質なデスクを苛立たしげにトントンと叩いた。
「問題は――もう一匹いる」
その言葉が落とされた瞬間、地下室の明かりがわずかに明滅したかのように、気圧が一段と重く張り詰める。
壁際の日陰に身を置き、静かに腕を組んでいたレイイチが、その美しい瞳をさらに細めた。彼の胸の奥の回路が、その名を聞くだけで不快なノイズを検知したかのように、微かに熱を帯びる。
「……揺、か」
「ああ」
デジットは心底嫌そうに、まるで呪わしい記憶を振り払うかのように深く頷いた。
「神獣『揺』。スカラー直属という最高位の権限を与えられながら、中央規約を平然と無視して徘徊する、いわば世界の構造欠陥だ」
「欠陥って……神様側の獣なんだろ?」
秋山が呆れたように、救いを求めるような視線を周囲に巡らせる。
しかし、返ってきたのは静寂だけだった。
「事実だ。あいつには『目的』という概念がハナから存在しない。忠誠心もなければ使命感もない。何かを破壊したいという悪意もなければ、利益で動くわけでもないのだ」
デジットは吐き捨てるように言い、椅子の背もたれに乱暴に身を預けた。
「じゃあ……何で動くんだよ。そんな怪物、どうやって制御すりゃいいんだ?」
秋山の切実な問いに応えたのは、デジットの乾いた、どこか哀れみすら含んだ嘲笑だった。
「――面白そうだから、だ」
一瞬、地下室のすべての精密機械の駆動音が遠のいたかのように、濃密な沈黙が空間を支配した。
あまりにも緊張感のない単語に、秋山の思考が完全に停止する。
「……は?」
「だから、面白そうだからだ。ただの、気まぐれだよ」
デジットは観念したように大きな溜息をつき、自らの額を強く押さえた。
「昨日まで命を懸けて殺し合っていた相手側に、その日の気分でふらりと寝返る。味方を護っていたかと思えば、次の瞬間には背後から敵を助ける。凄惨な戦場の真ん中で『あ、なんか飽きちゃった』と言って、突然ゴロゴロと昼寝を始める。あいつの周りでは、因果も確率もすべてがただの、くだらない『寄り道』に成り下がる。そういう存在だ」
「なんだよそれ……。ただのめちゃくちゃな大迷惑じゃねえか……」
「僕も、本当にそう思うよ」
レイイチが吐息を漏らすように即答した。
その声には、超然とした佇まいからは決して見せない、明らかな疲労感が滲んでいた。
「まあ、いい」
デジットはそれ以上の演算を拒絶するように、乱暴に話を切り裂いた。
「どうせ今回は遭遇しない」
デジットは吐き捨てるように言った。
「スカラー領域は広い。あの放浪癖の塊が、わざわざ我らの航路に現れる理由などない」
そう言って、彼女は冷たくなったコーヒーのカップを引き寄せ、椅子へ深く座り直した。
だが、なぜだろう。
「遭遇しない」と、その場の誰よりも早く話題を終わらせ、最も論理的な結論を出したはずのデジット自身が――誰よりも一番、不機嫌そうに、苦い顔で唇を噛み締めていた。
「話の腰を折るようで悪いが、もう一つ確認したいことがある。肉体奪還チームの戦力が、あまりに不安だ」
秋山の額には、モノリス崇拝派という未知の恐怖に対する嫌な汗が滲んでいる。
「元科学者のマスターに、現役科学者の俺、そしてプロットライターの律さん。……頭脳戦ならまだしも、相手が暴力や、その噂に聞く妖しい『術』を使ってきたら、俺たちはただのサンドバッグだぞ」
重苦しい沈黙の中、静かにコーヒーを配っていた陽菜が、ふと足を止め、小首を傾げて微笑んだ。
「……あの、もしよかったらアタシもマスターのチームに行かせて貰えませんか? モノリス崇拝派の方々とは、ちょっとだけ……因縁があるんです」
「モノリスと因縁!?」
秋山の声が店内に響き渡る。
「陽菜ちゃん、気持ちは嬉しいが危なすぎる」
マスターが慌てて制止するが、陽菜の微笑みは崩れない。
「ええ……。だから、実は……秘密がありましてえ」
陽菜がおもむろに右手を空に掲げた。
刹那、真空の鳴動が地下室に走り、彼女の指先から、眩いばかりの、けれどおぞましいほど高密度な「霊力」の奔流が噴き出した。
それがビットの演算回路と共鳴して、目に見えるほどの物理エネルギーへと変換されていく。
凝縮された光の粒子が、空気を焼き、パチパチと空間を爆ぜさせた。
「なっ……なんだ、そのエネルギー係数は!? 測定不能……物理変換効率が100%を超えている……!?」
秋山のタブレットが過負荷で悲鳴を上げた。
驚愕に凍りつく一同。
「陽菜、その力は一体……」
壱が驚愕に目を見開き、問いかけた。
陽菜は少し困ったように、けれど隠し事から解放された晴れやかな顔で語り始めた。
「……実は、アタシの実家、信州で1000年続く神社なんです。今の今まで、ただの古臭い家訓だと思って隠してたんですけど……」
陽菜は苦笑いしながら、長沢家の規格外な面々を思い浮かべる。
「祖父の長沢厳山は、神社をホールディングス化して民間軍事…いえ警備会社と結界術を連携させるような理屈屋の陰陽術マスター。母の麗子は、男運は壊滅的ですけど、天性の声で山を鎮めるスピリチュアルな歌い手です。母は『新しい彼氏のソウルが震えるから!』って職場放棄しちゃって蒸発していたことが何度もあって…」
「職場放棄だと……?」
秋山が呆然と呟く。
「でも、一番の理由は、おばあちゃんのトミなんです。おばあちゃん、霊力はゼロなんですけど、物理だけで怪異を粉砕しちゃう人で。おじいちゃん曰く『ありゃ純粋な暴力だ』って。私のこの、ちょっと人より肺活量があるところとか、力が強いところは完全におばあちゃん譲りみたいで……。そこに、おじいちゃんの理論とお母さんの声が全部混ざっちゃったのが、私なんだそうです」
陽菜の瞳に、ライブで培った不屈の意志が宿る。
「上京した時から去年の夏まで力を封印されていたせいで、出力の加減がわからなかったんですけど。…リミッターの外し方はもう分かりました。お母さんのような綺麗な神楽歌は歌えません。でも、私の『エモい歌唱(祝詞)』なら、モノリス崇拝派の澱んだ術式ごと、大音響で調律してみせます。詳しくはスピンオフ読んでください!」
「ふははは、ついにカミングアウトか、陽菜。」
デジットが窓際で、今日一番の愉快そうな声を上げて笑った。
「内密にしておきたかったんですけどね。……マスター。不束者ですが、あなたの背中、守らせていただけますか?」
なんだかよくわからないが、人間離れした物凄そうな力を目の前で見せられたら、もう信じるしかあるまい。
壱の瞳には、初めて迷いのない勝機が宿った。
「モノリスとの因縁はあとでゆっくり聞くとして……決まりだ。陽菜。それとレイイチ、皆を頼む」
「了解したよ、壱。……『ヒーロー』の格好をさせられた意味、ここで証明してみせる」
レイイチの回路が青く、陽菜の霊力が白く、運命の開門を告げる火花のように地下室を鮮やかに照らし出した。




