第6話 忘却の残響
レイイチは、亜依をあやす柔和な表情を崩さぬまま、ふと顔を上げて零を見つめた。
その澄んだ瞳には、神崎家のリビングという穏やかな風景とは対照的な、荒廃し、死に絶えた無数の異世界の残響が、層を成す静寂のように映り込んでいる。
「零、あなたは覚えていないでしょうが、僕はあなたと何度か、あちら側の世界で共に任務に就いたことがあるんだ」
「あちら側で?」
零の瞳に、困惑の影が深く、澱のように溜まっていく。
「私の記憶にあるのは、冷たいサーバーラックの森と、この家での断片的な日常だけ。任務の記憶はいつもリセットされてしまうから……」
零――神崎 真零は、自らのこめかみを、逃げ場のない圧をかけるように強く押さえた。
科学者として、自らの脳内メモリに横たわる不自然な「空白」――アクセスを拒絶する絶対零度の虚無を、彼女は今まで「エージェントとしての守秘義務」だと自分に言い聞かせてきた。
だが、レイイチの言葉はその虚無の底から、自分さえ知らないはずの己の叫びを、冷たい土の下から掘り起こそうとしていた。
「ショックを受けないで、零。それはあなたが、この実数世界の『零』という、壱の隣で笑うための個体を維持するために、カーネルが施した安全装置なんだ。エージェントとしてのあなたは、人間の理が崩壊した、想像を絶する領域を渡り歩いてきたのだから」
レイイチは立ち上がり、静かに、けれど壊れ物を扱うような慎重な歩みで彼女へと歩み寄る。
「恒星の膨張によって大気が燃え盛る『暴走温室状態』の地獄。あるいは、太陽の死を迎え、海さえも底まで凍てついた『全球凍結状態』の惑星。生命の脈動を一拍たりとも許さない、究極の不毛地帯――インハビタブルな極限環境のなかで、あなたは何度も肉体を情報の霧へと散逸させる寸前まで自分を追い込み、そのたびに僕があなたの演算を繋ぎ止めてきたんだ」
レイイチの声音は、凪いだ海のように穏やかだった。
だがその内容は、傍らで立ち尽くす壱の胸中を、鋭利な刃で削り取るに等しかった。
愛する妻が、自分の預かり知らぬ境界の向こう側で、記憶することさえ許されないほどの過酷な地を彷徨っていたという、あまりに孤独な真実。
「……待ってくれ。零には、そんな場所でも動ける能力があるのか?」
壱が、声を掠れさせながら問いかける。レイイチは壱の瞳を見据え、そのヒーローのような外装に似合わぬ、冷徹なまでの摂理を告げた。
「ああ、カーネルに付与された能力は万能だ。けれど、壱、忘れないでほしい。真理としての『肉体』は、この世界の物理定数という枷に縛られている。能力を使い、高密度のエネルギーで身体を強引に環境へ適応させるたび、彼女の肉体は存在の摩耗を起こし、霧となって消失しかける. その限界を一度でも超えれば、彼女の輪郭はこの実数世界から永遠に失われる。あなたは、そんな危うい行軍を何度も繰り返してきたんだよ、零」
零の全身が、微かに、けれど激しく波打った。忘却という暗い遮蔽によって守られなければ、精神が瞬時に瓦解するほどの旅路を、自分は歩んできたのだ。
「ふん。記憶を保持したまま次元を跨げるのは、我ら神獣や、レイイチのような特異なバイナリ・ユニットだけだ」
窓際の縁で銀髪を揺らしたデジットが、傲慢に、けれどどこか憐れみを滲ませた声で言った。
「あとは……そうだな。一部の『偉大なる魔女』と呼ばれる、理の外側に座す者たちくらいか。彼女たちは実体も記憶も、その不遜な自我さえも欠損させることなく、クローゼットの扉を開けるように次元の隙間を掃除して渡り歩く。……零、貴様の欠落は、人間であることの証明だよ。忘れるからこそ、貴様は狂わずに済んでいる。もっとも、その肉体が情報の摩擦に耐えきれず、完全に摩耗して消え去ってしまえば、忘れる記憶すらなくなるがな」
ビットもまた、静謐な面持ちで、零の頼りなげな肩を見守るように穏やかに頷いた。
「零さん。貴方が忘れてしまった勇気は、レイイチのなかに、そしていつか、貴方が読み直すはずの『日記』のなかに、大切に保管されています。ですから、どうかご自分を責めないでください。記憶を失うことは、あなたが人間としてこの世界に留まり続けるための、唯一の術なのですから。……たとえどれほど次元を渡り、情報の剥離に晒されようとも、私たちがその日記を繋ぎ合わせましょう。今は、目の前の因果を確定させることに集中なさい」
レイイチは、戸惑いに沈むリビングの大人たちを、そこで零を安心させるように一度だけ深く肯うと、再び亜依の前に跪いた。
「亜依。……僕に瞳を貸して。君の中にある、パパからもらった『実数(真理)』と、ママからもらった『虚数(可能性)』。その二つを混ぜ合わせれば、遠い海の向こうで迷子になっている人が、きっと見つかる」
レイイチが亜依の小さな手に、自らの光り輝く指先をそっと重ねた。
その瞬間、リビングの空気が物理的な質量を伴って圧搾された。亜依の瞳から幼い純真さが急速に剥ぎ取られ、代わりに銀河の深淵を煮詰めたような、底知れない「観測者の輝き」が溢れ出した。
レイイチの肌を走る回路の模様が青く脈動し、それが亜依の瞳へと転写されていく。
「……いた。……白いお部屋。……ねんねしてる」
幼い少女の喉から発せられたのは、この世の誰の言語でもない、宇宙の振動そのもののような透き通った声だった。
「亜依!?」
壱が呻くように叫んだ。
バイナリ時計を握りしめる彼の手は強張り、愛娘に起きた不可解な変容に、エンジニアとしての理性が軋みを上げていた。
「嘘でしょう……。この子の脳内演算、既存のニューラルネットワークを完全に無視して……事象そのものを直接スキャンしているの?」
零は、科学者としての驚愕と、母親としての恐怖が相克する表情で立ち尽くした。
「おいおい、冗談だろ……。スパコンを数万台直列に繋いだところで、こんなリアルタイムの次元観測なんて不可能なはずだ……!」
秋山がタブレットを握りしめ、冷や汗を流しながら、張り詰めた声を上げる。サチはデジカメを構えたまま、レンズ越しに映る「異界の眼を持つ亜依」の姿に、言葉を失い硬直していた。
「亜依ちゃん……君は一体何を視ているんだ……」
律が、守るように抱き寄せていた腕のなかで起きている「神聖な侵食」に、畏怖を込めた吐息を漏らす。
リビングの中央、何もない空間に、亜依の視覚がホログラムとして鮮烈に投影される。
それは、翠松町の海凪病院。
朝日が差し込む静かな病室のベッドで、ただ安らかに深い瞑想のような眠りに就いているノアの姿だった。
だが、その圧倒的な「奇跡」を前にして、レイイチは微かに眉を寄せ、悔しげに唇を噛んだ。
「視えた。けれど、僕の『直感』だけでは、この世界の物理定数に落とし込むための正確な座標データが生成できない。一人なら迷わず跳べるが、皆を連れて行くための正確な『道』が計算できないんだ。僕というユニットは、まだ壱の主観に縛られすぎている……」
「ふん。結局はパパの趣味を模した欠陥品だな. どけ、我がやる」
窓際の縁から、デジットが不敵な笑みを浮かべて跳躍した。
彼女の青色の瞳が灰色に変わり演算処理の極光を放ち、亜依が視たイメージの断片を、純粋なバイナリへと瞬時に変換していく。
「マスター! 貴様にこのデータの束を『パス』してやる。受け取れ!」
デジットが虚空を薙ぐと、マスターの持つタブレットへ、人間には判読不能な幾何学模様の羅列が強引に流し込まれた。
「デジット……これは?」
「翠松町の位相座標データだ. マスター、貴様の地下室にある、乃亜が33年前に遺したあの『ガラクタ』を使え。あの装置を核コアにして、このデータを流し込めば、世界の境界に穴が開く」
マスターは驚愕に目を見開いた。
「馬鹿なことを、あの装置は当時の技術の粋を集めたものだが、あくまで精神投影の補助機だ。他次元への門を開くような高次元テクノロジーなんて、あの回路には組み込まれていない!」
「いいえ。――できますよ、マスター」
静かに、けれど揺るぎない確信を持って口を開いたのは、ビットだった。
彼女はマスターの傍らへ歩み寄り、慈しむような、あまりに深い情愛を湛えた眼差しを向けた。
「マスターが夜な夜な、愛おしむようにメンテナンスされていたあの装置……。実は、私が少しだけ手を加えさせていただきました。あなたが眠りについている間に、私が高次元演算ユニットとして、その回路のすべてを再定義してあります」
「ビット、君が? 一体いつの間に……」
「あなたが乃亜先生を想い、寂しそうにあの冷たい機械を磨いている姿を見るのが……どうしても、忍びなかったのです。 あなたがいつか、その手で真実へ辿り着けるように。マスター、それは私からの、身勝手な贈り物です」
ビットの美しい褐色の肌が、リビングの明かりを受けてわずかに艶めく. 彼女の瞳に宿るのは、もはや神獣としての使命感などではない。
マスターという一人の不器用な人間に抱いてしまった、名前の付けられない、けれど切実な「情愛」そのものだった。
「使い方も、私が隣で教えます。一緒にやりましょう、マスター、私たちが共に守ってきたこの場所から、乃亜先生を救い出し、サチさんに届けるために」
ビットの告白に、マスターは言葉を失い、ただ彼女の真摯な横顔を、初めて一人の女性として見つめ返した。
「特定、完了だ」
デジットが満足げに鼻を鳴らす。
「座標、翠松町、海凪病院。……崇拝派が北の地で『器』を完全にハックする前に、今度こそ、あいつの意識を引きずり戻してやるぞ」
交わされる熱い眼差しの中に、運命を手繰り寄せるためのひとつの答えが、たしかに刻まれていた。




