第5話 バイナリ・ユニットの融像
神崎家のリビング、その洗練されたモダンな空間は、今や物理法則のグリッドが根底から書き換えられる「戦場」へと変貌を遂げていた。
中央に渦巻く青いバイナリの暴風は、壱が家族の平穏を願って心血を注いだスマートハウスのシステムを、冷徹なノイズで次々と侵食していく。
壁面の柔らかなホログラムは無惨な砂嵐へと果て、室温を一定に保っていた静かなファンは、限界を超えた演算に喘ぐように悲鳴を上げた。
世界の輪郭が解像度を失って剥離し、その眩い光の爆心地で、徐々に確かな質量を伴いながら、一人の青年が完全に「受肉」した。
レイイチ。
零のしなやかな曲線美と、壱の強固な意志を宿す直線的な輪郭を、最高密度の演算によって抽出・再構成したような容貌。
だが、その透き通るほどに白い肌を走る、青白い回路を思わせる幾何学的な「模様」の明滅は、彼が単なる人間ではなく、この宇宙の致命的なバグを修正し、観測するために生まれた「究極の演算ユニット(アルティメット・オブザーバー)」であることを、残酷なまでの美しさで誇示していた。
リビングを狂乱させていたバイナリの暴風が、彼の存在の定着とともに、祈りの終わりを告げるようにぴたりと止む。
耳鳴りのような重い静寂が戻った空間で、真っ先にその沈黙の膜を破り、弾んだ声を上げたのは幼い娘だった。
「にぃに! にぃに、きた!」
律の腕から零れ落ちるように床に降りた亜依が、躊躇いもなく無邪気な笑顔で、その異質の青年に向かって駆け寄る。
レイイチの、無機質で凍てついていた瞳に、微かな、けれど確かな、血の通った熱が宿った。
彼はその場で静かに跪き、亜依の目線に合わせるようにして、慈しみを湛えた薄い微笑を浮かべた。
「……やあ、亜依。また会えたね。……そして、皆さんも。部屋をこんなに散らかして、壊してしまって、ごめんなさい」
「……君は、誰だ」
壱の声は、震えていた。
自分と愛する零の面影を等しく、あるいは余りに鮮烈に併せ持つその青年に、言いようのない戦慄と、記憶の深層を揺さぶられるような、泣きたくなるほど奇妙な懐かしさを同時に感じていた。
「はじめまして。……今は、レイイチ、と名乗っておくよ」
レイイチは静かな所作で立ち上がり、壱を、そして零を、射貫くような静謐な眼差しで見据えた。
「あなたが……レイイチなのね」
零が、見えない引力に惹きつけられるように、一歩前へ踏み出す。
科学者としての冷徹な理性は「目の前の存在は、あの夜の演算誤差が生んだ精神生命体だ」と正解を告げている。
けれど、彼女の魂に宿る母性は、そんな理屈を容易く跳ね除け、目の前の青年を「自分の分身」として、あるいは「失われた時間を埋める存在」として、理屈よりも先に抱きしめるべき結論へと導いていた。
「その姿……。ビットやデジットとは、根本的に構成が違うみたいだけれど」
零の問いに、レイイチは自分の肩や胸元を覆う、どこか浮世離れした「ヒーロー」を想起させる意匠のコスチュームを、居心地が悪そうに、あるいは自らを隠すようにして自らの腕で引き寄せた。
回路の明滅に合わせて、その頬が微かに、人間らしい羞恥に染まる。
「……この格好は、あまり見ないでほしいんだ。……少し、恥ずかしいから。これは僕の意志じゃない。生成の過程で、壱、あなたの脳内から、変な『正義の味方』のイメージが強烈なパケットとして流れ込んできたせいだよ。……これはあなたのせいだからね、壱」
壱は、自分自身の記憶の底に眠っていた、幼い頃に誰よりも強く憧れたスーパーマンや特撮ヒーローの純粋な残像を、鏡のように突きつけられた気分になり、羞恥と困惑で顔を赤くして沈黙した。
まさか、自らの深層心理に沈殿していた「カッコいいヒーロー(お父さん)」への、語ることもなかった幼い憧憬が、次元を超えて顕現した究極の生命体の外装を、バグとして決定づけてしまったとは。
「ふん。神獣の我らには不可能な『セルフデザイン』という唯一無二の特権を、あろうことかパパの趣味に全振りして受肉するとはな。貴様も相当なバグをその身に抱えているぞ、レイイチ」
窓際の縁に腰掛けたデジットが、意地の悪い愉悦を浮かべ、追い打ちをかけるように鼻で笑った。
レイイチは重い溜息をつき、そのヒーローのような、けれどあまりに繊細でナイーブな姿のまま、サチへと真っ直ぐに向き直った。
「秋月サチ。ノア(乃亜)の居場所は、翠松町にある。……あの日、僕があなたのデジカメにログを書き残したのは、いつか必ず来るこの日のためだ。僕は、僕をデザインしてしまったこの『ヒーロー』の定義に逆らわず、彼を救い出し、あなたに届けるための道標にならなきゃいけないんだ」
サチの喉が、微かにひきつった。
彼女は胸元で固く握りしめたデジカメの、冷たい金属の感触を確かめる。
翠松町――。
昨日、デジカメから語りかける父から聞いたその地名。
これまでレンズ越しに追い続けてきた父・乃亜の面影は、いつも現実味のないノイズの向こう側にあった。
だが、今、目の前の青年が告げたのは、その影に確かな質量を与えるための、あまりに確信に満ちた地名だった。
「道標、あなたが」
サチの声は低く、けれどリビングの喧騒を貫くような芯の強さを孕んでいた。
彼女の瞳には、色彩と光を操るグラフィックデザイナーとしての鋭い感性と、33年という歳月、たった一人の「父親」を待ち続けてきた娘としての痛切な渇望が混在している。
「あなたはそこで父に、会ったのね?」
サチの一歩が、リビングの空気を支配した。
レイイチの瞳の奥に、かつて自分が愛した父の色彩が微かに反射しているのを、彼女の審美眼は見逃さなかった。
「ああ。世界の境界、初めて彼を観測したのは、量子たちの確率の波が凪いでいるような場所。その後、翠松町の病院で彼と言葉を交わしたよ」
レイイチは、熱を帯びたパケットを思い出すように、視線を遠くへ投げた。
「僕が生まれたとき、同じ方向に引っ張られている何かがいた。僕はそれについて行った」
自身の記憶の始まりを思い出すレイイチの顔に、少しだけ、人間らしい表示が浮かぶ。
「それがノアだった。僕たちは静謐な時の中にいた。彼は不安定な精神体。けれどその意志だけは、あなたへと繋がる『線』を探し続けていたよ。翠松町で体がビルドされ、運ばれていく様子を僕は観測しつづけた。彼もまた僕を観測していた。彼には僕の姿が見えているようだった。それから僕は、自分が生まれた場所へ戻った。カーネルに呼ばれたり、亜依や君たちの周りにいたり、任務をこなしたりする中で、気が向くと乃亜に会いに行った。あるとき、病院と呼ばれる場所で彼は僕に言ったんだ。……自分がここにいることを、娘に、サチに伝えてほしいと。彼は絶望なんてしていなかった。いつかあなたがレンズの向こう側から自分を見つけ出すことを、確信して笑っていたんだ」
「お父さんが、私を……? 待っていてくれたのね」
サチの瞳に、堪えきれない熱い膜が張った。
グラフィックデザイナーとして数多の光を描いてきた彼女にとって、零壱が語る「笑っていた」という言葉は、昨日デジカメ越しに聞いた父の声に、極彩色の真実を上書きしていく。
「あの日、ファインダーの隅であなたを見つけた時、私はただ、その色の美しさに目を奪われた……。でも、あれは単なるバグなんかじゃなかったのね。私と父を繋ぎ止めるための、最後の一行だったんだわ。レイイチ、連れて行って。私にあるのは、世界を美しく切り取るための目と、父を想い続けた時間だけ。でも、もしお父さんが本当にその街で私を待っているなら……どんなに遠い次元でも、私は彼を見つけ出したいの」
サチの覚悟に満ちた言葉に、沈黙を守っていた壱の胸の奥で、何かが激しく軋みを上げた。
壱は、自らの左手首で律動するバイナリ時計を握りしめたまま、立ち尽くした。
もどかしくも痛切な距離感。
けれど、目の前の青年がその身に纏っているのは、間違いなく、かつて壱が世界に対して、そして家族に対して、いつか託したかった「守るための力」の形そのものだった。




