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第4話 再起動のパケット

二年前に新築された、壱と零の邸宅。



 若きエンジニアと科学者の成功を象徴するその豪邸は、小高い丘の上に毅然と佇み、洗練されたモダンな設計が随所に施されていた。




外観はコンクリート打ち放しの無機質な量塊マスと、鏡面仕上げの強化ガラスが複雑に組み合わされ、昼間は周囲の風景を遮断し、夜になれば内部の知的な熱量をほのかに透かす。






その内部設計は、二人の職業的アイデンティティが高度に結晶化したものだった。




 壱のエンジニアリング的感性は、家全体の「インテリジェンス」に宿っている。




壁面にはスイッチの類が一切存在せず、視線と音声、あるいは微細な生体パケットを感知して、照明や室温、さらには空間のレイアウトまでもが自律的に最適化される「動く建築」だ。




リビングの床には、壱が開発した次世代通信規格のテストベッドを兼ねた銀色の導線が幾何学模様を描き、インテリアの一部として美しく埋め込まれている。




 一方で、零の科学者的探究心は、リビングの奥に隣接されたガラス張りの「プライベート・ラボ」に象徴されていた。




そこには超高解像度の電子顕微鏡や、分子配列をシミュレートするホログラム投影機が鎮座し、彼女の飽くなき知的好奇心を支えている。




さらに、その研究室の地下には、壱さえも全容を知らない「秘密の隠し部屋」へと続くハッチが隠蔽されていた。




だが、その広大なリビングには今、到底収まりきらないほどの「世界の真実」が充満していた。




吹き抜けの天井まで届く大きなガラス窓からは、街の景色が一望できるはずだったが、今はただ、不穏な静寂が室内の熱を奪っている。




特注のソファも、足元に広がる最高級のタイルも、この場に集まった者たちが抱える異世界の重圧の前では、単なる記号に過ぎなかった。






集まったのは零、壱、サチ、マスター、デジット、ビット。




そして、壱の友人で科学者の秋山拓海(あきやま たくみ)。




秋山は零と同じ研究所に属する同僚でもあった。




壱はかつて、零を通じて秋山を紹介され、技術者と科学者として意気投合して以来、零が不在の夜も壱の隣でコードを書き、彼を支え続けてきた無二の親友だ。




 そんな大人たちの重苦しい空気とは対照的に、リビングの隅では律と幼い亜依が無邪気に戯れている。




その異質なコントラストが、かえって事態の異常さを際立たせていた。




また、本来この場所にいるはずの長沢陽菜(ながさわ ひな)は、居酒屋『パラレル・ライン』に一人残っている。




万が一、彼らが異界へ消えてしまったとしても、この世界の「日常」という錨いかりを繋ぎ止めておくために。






吹き抜けの窓辺には、実体化したデジットとビットが腰掛け、冷徹な観測者の目でこの光景を俯瞰していた。




壱の左手首にあるバイナリ時計が、昨日からずっと青いLEDを狂わしく点滅させていた。




それは単なる故障ではない。異世界のパケットがこの邸宅の物理法則を浸食し始めている警告アラートだ。




「壱、このパケット……既存の通信規格を無視して、時空のグリッドそのものを上書きしようとしている。一体何が起きてるんだ?」




 秋山が、リビング中央に鎮座する巨大なテーブルに広げたタブレットで、その異常な数値を必死に追いかける。親友の窮地と、同僚である零が抱えていた秘密の巨大さに、彼は科学者としての戦慄を隠せずにいた。






「整理しよう」




 マスターが重い口を開いた。






「乃亜は異世界『翠松町』(すいしょうまち)に漂着し、そこには零と壱の因子を持つ精神生命体『レイイチ』がいる。そして、その場所を特定できるのは……この、亜依ちゃんだと言うのか?」




壱誠の喉が、乾いた音を立てて鳴った。




傍らでディスプレイを見つめていたビットが、無機質な光を瞳に反射させながら、独り言のように呟く。




「不可解ですね。精神体コードを全焼させたはずの乃亜先生が、あちら側で『実体』を伴って観測されているなんて。本来なら、魂の抜けた情報は即座にカーネルの海へ霧散し、二度と形を結ばないはずなのに」




ビットは亜依の無垢な顔を一瞥し、淡々と仮説を口にした。




「もしかしたら……これは私の想像に過ぎませんけれど。あちらの世界に存在する『レイイチ』という特異点。それが乃亜先生という欠損したデータを、自身の『器』の一部として強制的に再構成レンダリングしているんじゃないでしょうか。零と壱、二人の因子を併せ持つその生命体にとって、乃亜先生という存在は、システムを成立させるための必須ライブラリのようなものなのかもしれません」




「レイイチが、乃亜を繋ぎ止めていると?」




「そうです、マスター。レイイチという演算主体が、先生の魂の残響をかき集め、物理的な形に凝固させている。もしそうなら、先生がそこ(翆松町)に実体を持って留まれているのも、亜依ちゃんがその座標を『家族の共有キー』として嗅ぎ分けられるのも、すべて説明がつく」




壱誠のバイナリ時計が、冷徹な数字を刻み続けていた。




 律の服の裾を掴んで笑う亜依を見つめ、一同に沈黙が流れる。








「……カーネルとは、一体何なんだ」




 マスターの問いに、デジットが退屈そうに銀髪を弄りながら答えた。




「この世界の根底にある、事象演算の核コアだ。貴様ら人間が『神』や『物理法則』と呼んでいるものの正体。だが、勘違いするな。カーネルは支配級の精神体ではあるが、多元宇宙の全てを統べる唯一神ではない。それぞれに管轄……いわば統べる階層範囲というものがあるのだ」






「乃亜さんが私たちのインデックスから外れ、観測不能になった理由もそこにあります」






 ビットが沈痛な面持ちで、端末を操作するように指を動かす。






「乃亜さんは今、我々のカーネルの統治が及ばない、全く別の高次元意思が統べる階層にいます。あちらの世界では、我々の理ことわりは通用しない。迷い込んだ乃亜さんは、そのシステムを脅かす『アウトライヤー(異常値)』。向こう側の冷徹な演算によって、存在そのものを消去デリートされる可能性が極めて高い。のんびりしている時間は、一秒たりともありません」






「……いいか、よく聞け」




 デジットが窓枠から飛び降り、壱の前に立ちはだかった。




「我やビット、そしてレイイチというバイナリユニットは、ディメンショントラベラーとしての特性を持っている。ゆえに多元宇宙を自在に渡ることができる。だが普通の人間であるお前たちは、周期的に世界が最も接近する瞬間でなければ境界を超えられない。それでも我の『神隠し』という異能を介さなければ、肉体が情報分解に耐えられないだろう。……幸い、あちらの世界は生身で行けるハピタブルゾーン(生命居住可能性領域)のようだから、そのままの身体でも活動できるようだがな」




デジットは鼻で笑い、零に冷ややかな、しかしどこか挑発的な視線を投げた。




「まあ、多元宇宙を渡れる者が、ここにはもう一人いることだしな。零が先回りして環境を整えれば、少しは生存率も上がるだろう」






その言葉が発せられた瞬間、リビングの空気が凍りついた。






「……待て。今、なんて言った?」






壱は深く腰掛けていたソファから、突き動かされるように身を乗り出した。




テーブルをきつく握りしめ、デジットを凝視する。




秋山も、サチも、マスターさえもが、信じがたい事実を突きつけられたように零へと視線を向けた。




「……隠していても仕方がないか」




 デジットは「しまった」という顔をしたが、隠し通せないと悟ると、冷笑を浮かべて壱を射抜いた。




「壱、貴様が失くした記憶の断片は、我がキャッシュデータとして保持していた。我はカーネルの禁忌を破り、それを貴様の脳へ受肉ダウンロードさせようとしたのだ」




デジットは自嘲気味に口角を上げた。




その眼差しは、冷徹な神獣のそれではなく、ひどく人間臭い困惑を孕んでいた。




「我々にとって、人間は観測対象のデータに過ぎん。だが、1年以上も貴様の隣で無意味な飯を食い、貴様の低レベルな悩みに付き合わされるうちに、我の論理回路に致命的なバグが生じた。貴様が、何もない空からの記憶を抱えて立ち尽くす姿を見るたびに……我の演算処理が停滞するようになったのだ。これを人間は『友情』や『情け』と呼ぶらしいが、我にとってはただの汚染だ。その汚染に耐えかね、独断で貴様の記憶を修復しようとした。だが、カーネルはそれを見逃さなかった。上位意思にとって、我の行動はただの叛逆であり、システムへの侵食だ。因果の固定インストールは即座に凍結された」






「カーネルは条件を出した。その固定を許可する代わりに、零を、多元宇宙で発生するバグを処理するエージェントとして差し出せとな。零は帰還の際、異世界の高密度エネルギーに曝された影響で、戦闘に特化した異能力を獲得していた。本人さえ無自覚な、凶悪な力をな」






壱は言葉を失い、隣に座る零を見つめた。






「零、まさか……」






「その条件を聞いた彼女は、即答しました。『お引き受けします』と」






 ビットが悲しげに瞳を伏せた。






知的な美貌を湛えた彼女もまた、マスターの傍らで「心」という名の変質を遂げていた。






「カーネルは零さんの能力を覚醒させ、多元宇宙の渡航権と、いかなる環境下でも活動できる力を付与しました。零さんは既に二年前から、貴方の記憶を取り戻すために、死線を越える任務をこなし続けてきたのです。あと一度……。契約は、まだ続いています。壱、貴方の記憶が完全に再構築されるその日まで」






「……そんなこと、しなくてよかったんだ!」






 壱の叫びが、広いリビングの壁に反響する。






「記憶なんて、戻らなくても……零が無事なら、それでよかったのに!」




 壱の瞳に滲む涙を見つめ、零は静かに、彼の拳を自らの両手で包み込んだ。




「……いいえ、壱。逆なの。私は、あなたが私を思い出してくれるなら、どんな地獄へだって行ける。私が選んだ道なのよ。だから、自分を責めないで。私の中にあるこの『凶悪な力』は、あなたとの未来を守るための盾なのだから」




「我々のような神獣は、他世界で活動するにはその世界の知的生命体の姿を模写コピーして『器』を成さねばならない。自分自身の力で形をデザインすることができない不自由な存在なのさ。その点、零は、人間でありながら次元を穿つ唯一無二の存在だ。我々にとって、彼女というエージェントは、この世界を存続させるための最大の代償だったんだ」




その時。




部屋の隅で律と遊んでいた亜依が、突然動きを止めた。


その瞳が虚空を見つめ、何かに呼応するように激しく震え始める。




「呼んでる。……にぃに、呼んでる」




その一言が、日常の終わりを告げる号砲となった。




リビングの中央に重力の歪みが発生し、光り輝く青いバイナリが猛烈な勢いで渦を巻く。




その中心から無機質な粒子が溢れ出し、周囲の物質を強引に分解・吸収し始めた。




秋山の広げていた資料が紙吹雪のように舞い上がり、渦へと吸い込まれていく。それだけではない。




テーブルに置かれていた彩り豊かなマカロンやチョコレートが、皿ごとふわりと浮き上がった。




「あ! これはダメー!」




 亜依がトコトコと駆け寄り、宙に浮いたお菓子の皿を必死に両手で掴んで引き戻した。




緊迫したリビングに、皿を奪い合う亜依の小さな背中が奇妙なユーモアを添える。




しかし、渦は止まらない。



吸収した物質を燃料にするかのように、光の粒子が寄り集まり、一人の青年の姿を形作り始めた。



半透明のノイズを纏いながら、実体化していくその姿は、零と壱の面影を等しく宿しながらも、既存の生命体にはない静謐な冷たさを湛えている。



 そして、その透き通るような白い肌には、回路を思わせる幾何学的な「模様」が刻まれていた。



頬から首筋にかけて走るその青白いラインが、時折鼓動するように明滅し、彼が多元宇宙の「理」そのものを身に纏ったユニットであることを証明していた。




「……レイイチだわ」




 零は吸い寄せられるように、一歩前へ踏み出した。



その背中から、今まで隠し続けてきた紫黒色の高密度エネルギーが立ち昇り、顕現した青年の光と激しく衝突する。



物質が吸い込まれる轟音と、高次元エネルギーの干渉音が豪邸を震わせる。


サチはデジカメを構えたまま固まり、秋山は必死に異常波形を記録した。


律は咄嗟に亜依をその胸に抱き寄せて守り、マスターは彼らを庇うように盾となって前に出る。



 壱は零の手を離すまいと、その指を指関節が軋むほど強固に、決して解けぬよう握り直した。



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