第3話 アノマリーの桜が散る日
1. 解体される日常
マスターこと佐伯慎一郎。
かつて彼が所属した研究組織は変貌を遂げていた。
それは、モノリスという超常存在を神格化し、失われた叡智を狂信的に追う集団である宗教団体『モノリス崇拝派』が関係していた。
かつての同僚たちは、解明不能な謎に屈し、科学の衣を捨てて異界への扉を渇望する信徒へと成り下がっていた。
「皆、楽しい時間に水を差して済まないが、伝えたいことがある。日本の北の果て、我々が長きにわたって秘匿し続けてきた秋月乃亜の『器』。サチ、君の父親の肉体が、数週間前から未知の反応を示し始めた」
「え?お父さんの、肉体?」
サチの口から漏れたのは、言葉というよりは、肺の奥から搾り出された乾いた呼気だった。
デジカメを握る指先が血の気を失い、筐体がミシリと不穏な軋み声を立てる。
視界の端で液晶のスノーノイズが激しく明滅し、彼女の網膜を無機質に焼き打った。
「……お父さんの肉体があるの?」
サチは、血の気の引いた顔でマスターを射抜くように凝視した。
「ああ」
マスターは深く頷いた。
「 何それ、聞いてない!」
サチの瞳に宿ったのは、マスターへの剥き出しの怒り、そしてそれ以上に深い、足元が崩れ去るような絶望的な動揺だった。彼女はテーブルを叩き、椅子を蹴るような勢いで立ち上がった。
震えるのは膝ではなく、魂の演算回路そのものだ。
脳内のメモリに濁流のようなエラーメッセージが溢れ出す。
30年間、彼女が真実として積み上げてきた日常という名のデータベースが、たった一言の告白によって修復不可能なほどに損壊していく。
父は死んだ。
肉体すら残さず、光の粒子となって消えた。
その残酷な前提を、彼女は血を吐くような思いで受容し、自分自身の欠落を埋めるための義足としてきたのだ。
だが今、その前提そのものがマスターの欺瞞であったと突きつけられた。
「だって、マスターは言ったじゃない。あの夜、装置が起動した際の凄まじい衝撃波で、お父さんの身体は分子レベルで分解され、跡形もなく消えてしまったって。だから遺体さえ見つからないのだと、そう私を納得させたはずよ! 30年よ。お父さんがいない空っぽの世界で、私がどれだけのパッチを当てて、自分の心を繋ぎ止めてきたと思っているの!」
昂る感情が喉をせり上がり、サチの視界は激しい色彩の混濁に覆われた。
処理しきれない感情が、内側から彼女の理性を焼き切ろうとしていた。
サチがこれまで捧げてきた祈りは、行き場を失って空中を彷徨う。
法事のたびに空っぽの墓石に向かって語りかけた言葉。父の面影を探して解析し続けた、数千、数万もの空虚なログ。それら全てが、マスターが用意した「書き割り」の前で踊らされていた滑稽な演劇に思えてくる。
「マスター、あなたは知っていたのね。私が父のいない命日に、独りでどんな顔をして夜を過ごしていたか。私がどれだけ、指の間から零れ落ちた砂のような記憶を必死に掻き集めていたか! それを、あなたは横で見ていたのよ。私の絶望も、再生しようとする足掻きも、全部……全部、あなたの掌の上で管理されていたデータに過ぎなかったの!?」
サチの叫びは、店内の静謐を暴力的に粉砕した。
傍らで壱が驚愕に目を見開き、掛けるべき言葉を見失って固着している。
零は青白い唇を硬直させ、あり得ない事実を処理しようと、自らの胸元を強く圧迫した。
マスターは、その激情の全てを正面から受け止めるように、ただ静かにサチの瞳を見つめ返していた。
逃げも隠れもしない、岩石のような沈黙。
それが余計にサチの心を逆撫でし、怒りは悲鳴に近い乾いた笑いへと変質していく。
「黙っていて、本当にすまなかった」
マスターがようやく発したその一言が、サチの張り詰めた神経を無残に切断した。
彼はサチの視線から逃れることなく、深く、岩のように重い動作で頭を下げた。
「乃亜の身体を回収したのは、当時の組織だ。私はその管理責任者として、あいつの細胞が朽ち果てぬよう、極秘裏にメンテナンスを続けてきた。あいつ自身がかつて軍事用に開発した、未発表の『高次生命維持システム』のプロトタイプを使ってな。サチ、あちら側へ渡った後に残される空の肉体を保存してくれというのは、乃亜自身の強い希望だったのだ。いつか観測が完了した時、戻るべき場所を失いたくないとな。君に伝えなかったのは、それが組織から君を守る唯一の手段であり、あいつとの約束だったからだ。肉体があることが知れれば、君は一生、観察対象として追われることになっただろう」
壱が強張った声で問いかける。
「マスター。僕たちも初耳だ。零の帰還の際、乃亜さんの精神体があちら側にいたことは確認したが、肉体がこの現実世界に現存しているなんて」
「あの日、あの場所で……」
零の声は、砂を噛むようにかすれていた。彼女の瞳に宿る光が、演算エラーを起こしたインジケーターのように不規則に明滅する。
「乃亜先生の精神体は、私の帰還を確実にするための『燃料』として、そのすべてを焼き尽くしたの。……いいえ、先生自らがそれを望んだ。私をこちら側の実数世界へ押し戻すための、莫大なエネルギーを得るために」
リビングの空気が、物理的な質量を伴って重く沈み込む。
「情報の全焼失。バックアップも、ログも残っていない。秋月乃亜という個のインデックスは完全に消失した。……私たちは、あちら側で先生の魂が灰も残さず散っていくのを、ただ観測することしかできなかった」
零の瞳が、行き場のない虚空を彷徨う。
「だから、たとえどこかに先生の肉体が残っていたとしても、それはもう何の意味も持たない。OSの消え去ったハードウェアに、熱が宿ることは二度とないのよ。魂というプログラムがどこへ行ったのか、あるいは本当に消えたのか。」
「器があっても、中身が、空っぽだって言うの?」
サチの唇から、乾いた声がこぼれる。
それは「死」という言葉よりも残酷な、「存在の完全な消去」という概念だった。
壱誠のバイナリ時計が、かつてないほど激しい警告音を鳴らす。
それは、システムが「修復不能な欠落」を検知した際の、断末魔のようなアラートだった。
一同の脳裏には、もはやこの宇宙のどこを探しても、乃亜のパケット一つ残っていないという絶望的な「解」が、逃れようのない事実として上書きされた。
その時、陽菜の腕の中にいた灰色の猫が、光の粒子を伴って人の姿へと戻った。
「騒ぐな。低次元な感情を演算リソースに割くのは非効率だと言ったはずだ」
デジットが銀髪をかき上げ、傲然と足を組み替える。
「マスター。貴様の秘匿は、確かに人間らしい愚かな情愛の結果だろう。だが、器に反応があるということは、そこに『接続』を試みる何らかの外部パケットが存在するということだ. 事実を感情で塗り潰すな。今は事態の解析が最優先だ」
隣に立つビットもまた、静謐な佇まいでデジットに呼応した。
「怒りも驚きも、今は因果を確定させるためのノイズ。サチ、今の貴方が直視すべきは、マスターの嘘ではなく、彼が守り抜いたその『事実』のはずですよ」
二人の神獣に射貫かれ、サチは深く、震えるような吐息を漏らした。
握りしめていた拳の力が、ゆっくりと解けていく。
「そうね…。怒ったところで、過去のログは書き換えられない。でも。お父さんの身体を、今まで、大切に扱ってくれたことだけは、感謝するわ…。あなたが守ってくれなければ、本当の『モノ』として解体されていたかもしれないのだから」
マスターはサチの言葉を重く受け止め、タブレットの画面を彼女に向けた。
「この世界の物理定数とは明らかに異なる周波数の波形が、器の神経系を外部から強制的にドライブしている。まるで、遠い異世界の彼方から漂着した何者かの意思が、乃亜の身体をアンカーにしようとしているかのように。幸い、旧組織の中には、まだ私の信条を理解するかつての部下が数名残っている。今回、モノリス崇拝派の動向をリークしてくれたのは、現在も北の施設で乃亜の管理を担当している観測員だ」
「『モノリス崇拝派』に合流した旧組織の連中が、あの器を『神を降ろすための呪物』として奪おうとしている。奴らは乃亜の身体を、サチ、君の父の肉体を、自分たちの狂信を満たすための空箱にしようとしているのだ」
ありえない数値。
中身のない箱が、内側から誰かに叩かれているような絶望的な律動。
サチはデジカメの液晶に躍るバイナリを凝視した。そこにある座標と、北の果てで脈動を始めた父の身体。
すべてが一本の線として繋がり、彼女たちの胸を鋭く貫いた。
2.境界からのメッセージ
その瞬間、壱の左手首にあるバイナリ時計が、牙を剥くように再び青いLEDを狂わしく点滅させた。
穏やかな凪として機能していた日常という名のOSが、今、未知のパケットによって強制的に書き換えられようとしている。
「零っ」
壱は、隣に座る零の手を強く握った。
だが、その掌は血の気が引いたように硬直しており、まるで凍土のように冷たい。
脳のログを焼き切られても、魂が記憶しているはずのあの体温が、彼女の身体から急速に失われていく。
「どけ。そのガラクタの真価を引き出してやる」
デジットが歩み寄り、サチの手からデジカメを無造作に奪い取った。
彼女が指先をシャッターボタンに触れさせた瞬間、灰色の瞳が演算処理の極光を放つ。
神獣としての異能が電気信号へと変換され、カメラの内部回路に直接干渉を開始した。
サチや秋山が3年を費やしてもプロテクトを突破できなかった領域が、暴力的な速度で瓦解していく。
液晶のスノーノイズが一点に収束し、高解像度の映像が虚空へと投影された。
「……サチか」
投影されたホログラムの中で、秋月乃亜が穏やかに微笑んでいた。
背景に映るのは、零たちが暮らす街並みと寸分違わぬ風景だ。
だが、空の色や光の屈折率が、決定的な違和感として網膜を刺す。
「翠松町という所にいる。文明も文化も、言語や文字に至るまで、君たちのいる世界と何ら変わりはない。だが、どうやら俺は、日本によく似た別の世界へ流れ着いてしまったようだ。レイイチが言うには、ここはサチのいる世界とは違う、平行した別の事象系らしい。……実を言うとな、私もなぜかこちら側で肉体を持った状態で倒れているところを発見され、今は病院のベッドの上だ。なぜ肉体があるのかは私にもわからない。ただ、自分の身体にしては酷く居心地が悪く、なんとなくだが『仮の器』という気がしている」
乃亜の傍ら、光が不自然に屈折し、人影のような輪郭が揺らめいた。
激しいノイズがその実体を遮り、詳細な容貌を窺い知ることはできない。
「レイイチというのは、次元の壁を自在に渡れる精神生命体だ。周囲の物質を吸収して自らの肉体を構成できる能力もある。かつて、零がそちらの世界で肉体を再構成した時のようにな。この子は、零の帰還の際、壱くんと接触した衝撃で生まれた存在だ。レイイチはここがどこにあるのか自分では上手く説明できないようだが、『亜依』なら、ここの場所を特定できると言っている。亜依というのが誰なのか、俺にはわからない。だが、サチ。お前が亜依を探し出し、俺の居場所を特定してくれ。レイイチは、亜依はお前の近くにいると言っている」
映像が不意に途切れる。デジットはデジカメをサチへ放り返すと、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……やはりか。このカメラに残された精神体の痕跡を感じ取ってはいたが、正体が『レイイチ』だったとはな。奴は我々と同じく、カーネルの御使いの一人だ。我々のような上位種ではないが、同等か、あるいはそれ以上の力を持っている」
「とにかく、保持している『位相重力』の貯蔵量が尋常ではありません」
ビットがデジットに歩み寄り、冷静な補足を加えた。
「それは魔力や電気といった低次元な力とは異なる、事象そのものを歪曲させ、再構成するための高密度エネルギー。我々神獣と呼ばれる者が世界の整合性を保つために消費するリソースを、彼は個人で無限に生成しているように見えます」
デジットが壱と零を冷ややかに見据えた。
「零、壱。レイイチは時々、貴様らの周りにいるぞ。貴様らのような低スペックな知覚能力では、まず視認できないだろうがな。奴は次元の隙間に潜み、貴様らのログを常に観測している」
「彼が零さんと壱さんの接触から生まれたというのなら、その守護は本能に近いものなのでしょう」
ビットの言葉に、壱の顔が一瞬にして林檎のように赤く染まり、直後に青ざめた。
「な、何を、言ってるんだ」
壱の指先がバイナリ時計を強く抑える。
「僕と、零の、子供……? 精神体だって言うのか? あの時、僕が零を引き戻そうとした瞬間に、新しいログが生成されたっていうのか?」
隣では、零が呆然としたまま、映像が消えた虚空を凝視していた。
「私たちの、特異点。私が現世へ定着するために切り離した演算誤差が、ひとつの意思を持ったというの? そんな、あり得ないわ」
映像の中の乃亜は、一度言葉を切ると、射抜くような真剣な眼差しをサチへと向けた。
「こちらに渡る方法はレイイチが教えてくれる。彼は自分で直接俺を元の世界に連れて行くことは、何らかの制約があり実行できないようだが、我々の協力者として動いてくれるはずだ。サチ、お前にこのメッセージを託す。俺の『器』が動き出したということは、あちら側とこちら側の境界が崩れ始めている証拠だ。レイイチが道標を作る。お前たちは、北へ向かえ。そこが全ての因果の終着点になるはずだ」
傍らにいた陽菜は、サチの青褪めた横顔を見つめ、これから訪れる破壊的な嵐の予感に、自らの身体を固く強張らせ、ふと視線を窓に向けた。
窓の外には、宵闇に包まれた東京の街並みが広がっている。
かつて正体不明のモノリスが突如として現れ、世界を静かな恐怖に陥れたあの騒動の跡地――そこに平和への切なる祈りを込めて植えられた桜の成木たちが、夜空を淡い桃色に染め上げるほどの満開を迎えていた。
けれど、春の夜風に舞い散る無数の花弁は、人々が手に入れたはずの平穏を祝福するどころか、これから崩れ去る日常の哀しい破片であるかのように、ただ静かに、そして虚しく乱舞していた。




