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第2話 残響のパラレル・ライン

1.現実を繋ぐ錨(いかり)



壱は、3年前の事件を境に、システムエンジニアとしての在り方を根底から変容させていた。


 きっかけは、秋山との密談だった。


 

「その仕事、興味はあるけど、俺にはスパコンの実績なんてない。ただのSEだ」


 

 弱気な言葉を吐く壱に、秋山は冷徹な条件を提示した。


 

「じゃあ、10月のエンベデッドシステムスペシャリスト試験に受かってこい。その合格証書があれば、俺が上を説得して、1月から現場にねじ込んでやる」


 

 それは秋山なりの「入場許可証(パス)」だった。



 壱は死に物狂いで猛勉強を重ね、1月、秋山の口利きによって得た面接の場に、合格通知と自作の基板を携えて現れた。


 

 配属初日。エリート研究者たちが「コネで来た普通のSEか」と冷ややかな視線を浴びせる中、壱誠は無言で、自作の超高精度バイナリ時計をデスクに置いた。



そして、数週間誰も解けなかったハードウェアの競合問題を、基板の配線パターンから直接読み解き、わずか数分で解決してみせた。


 

 今、彼はスーパーコンピュータの設計を手掛ける「職人」として、冷徹なサーバーラックの森に身を置いている。



彼がいま冷たい排気音の中で設計しているのは、神の書いたシナリオを拒絶し、大切なものをこの現実へと繋ぎ止めるための、巨大で重厚な「錨」そのものだった。






2. 調律の夜



その夜、再建された居酒屋『パラレル・ライン』は、祝祭の予感と、神聖な空気に満たされていた。



 ステージ中央、この店の正社員として働く長沢陽菜(ながさわ ひな)が、ギターを爪弾き、最後のコードを優しく響かせた。



残響が琥珀色の店内に溶けていく中、客席からは吐息のような静かな拍手が湧き上がる。

 


「……素晴らしいよ、陽菜。聴くたびに、世界のノイズが洗われていくようだ」


 壱が心からの賞賛を送ると、サチも深く頷いた。



「本当ね。陽菜さんの歌は、私たちの魂の『調律』をしてくれているみたい」



 零もまた、感極まったように陽菜を見つめている。



「陽菜の歌に、何度も救われたよ。あっち側にいた時も、私の心の中にずっと響いていたのは、陽菜の旋律だった気がするんだ」



ステージを降りた陽菜は、少し照れたように三人のテーブルへと合流した。



「ありがとうございます!……零さんにそう言ってもらえるのが、私にとって何よりの報酬です。壱さん、今日は亜依ちゃんのこと、律さんにお願いしてきたんですか?」




零に対しては深い敬愛を、壱に対しては信頼を寄せる陽菜の姿は、この店の看板娘として完全に定着していた。






カウンターの片隅。



かつて灰色の猫の姿で、霧となって消えかけていた零の魂を霊的な光で包み込み、壱誠の潜在意識へと繋ぎ止めた神獣「デジット」が、今は銀髪の美少女姿でカウンターに踏ん反り返って不遜に足を組み替える。



「陽菜、お前の歌声は相変わらず不合理なほど響く。高次元存在であるこの我の論理回路が、『幸福』などという未定義の定数を吐き出し続けているではないか。おいマスター! お前もいつまでも感動に浸って突っ立っていないで、我に特別な一杯を寄越せ。二階の聖域へ引きこもる前にな!」



更に傲慢に踏ん反り返るデジット。



彼女は壱と目が合うと、一瞬だけかつての「相棒」としての気恥ずかしさを隠すように視線を逸らし、すぐに唇の端を吊り上げた。



「ああ、壱に零か。相変わらず下等なホモ・サピエンスらしい熱愛システムをフル稼働させているようだな。我という管理者がいなくなった家は、静かすぎて演算(あたま)が腐っているのではないか?」



デジットがそう言い放つと、



「この音に満たされている限り、多元宇宙の孤独さえ忘れることができる。陽菜、貴方は私たちの光よ」



その隣、同じく零の計画にはなかった「本当の奇跡」の片割れである黒猫のビットもまた、艶やかな肌を持つ背の高い女性として人の姿を纏っている。



彼女らにとって姿形は、その世界に干渉するためのインターフェースに過ぎない。



猫という器、あるいは人という器。



異空間に保管された無数の予備(バックアップ)の中から、彼女らは今、この物語に介入するための最適な姿を選択していた。



 あの日、零の精神がシュートされた瞬間にその輪郭を繋ぎ止めた慈悲深き神獣たちは、今、人の形を借りてこの世界のバグを見守っている。



その静謐な佇まいは、夜の闇そのものが安らぎを貪っているかのようだった。




陽菜は「ありがとうね。デジット、ビット」と、少し照れながら二人の「同居人」を見つめた。



かつては猫として抱き上げていた二人が、今や店の空気を支配する、美しくも騒がしい姉たちなのだ。



 毒舌を振るっていたデジットだったが、テーブルに合流した陽菜をじっと見つめると、不意にその声音を少しだけ和らげた。



「おい陽菜。今日の歌唱のご褒美にお前に特別な許可を与えよう。我を抱っこしていいぞ」



 そう言い放った瞬間、少女の姿は光の粒子に溶け、椅子の上には一匹の美しい灰色の猫が座っていた。



 猫の姿に戻ったデジットは、一切の声を出すことはない。



だが、抱き上げた陽菜の脳内には、直接その傲岸な声が響いてくる。



『(おい、もっと首のあたりを重点的にだ。これは私がお前に与えた特権なのだからな、光栄に思え)』



「はいはい、まるで赤ちゃんね」


 陽菜は手慣れた様子で、無言で喉を鳴らす猫を抱き寄せた。



甘えたい時だけは「特権を与える」という体で猫に戻り、念話で注文をつける――そのあまりの現金さに、壱と零は顔を見合わせて笑い、ビットは慈愛に満たされた溜息をついた。



 知的な美女の姿を保ったまま、ビットがデジットの甘えを包み込むように微笑んだ。



陽菜の腕の中で、猫のデジットは満足げに目を細めている。




 

 幸福な喧騒の余韻を遮るように、サチはバッグから古いデジタルカメラを取り出した。


かつて彼女の前に現れた見覚えのない若い男から「秋月乃亜の遺品」として託されたその筐体は、長年の歳月を物語る無数の傷に覆われている。


「またそのカメラかい?」


 壱が、手元のバイナリ時計を微かに光らせながら問いかけた。


「いつも持ち歩いているけれど、解析は停滞しているって言っていたじゃないか。でも、やっぱり、気になるよな」


「気になるのは当然よ。父が最後に何を撮りたかったのか。これには、零とお父さんが辿り着いた『あちら側』の光景が、バイナリの断片として保存されている。私への宿題。いえ、明白な挑戦状ね」



サチが起動スイッチを入れる。


レンズが短い駆動音を立て、液晶には光と影が混濁した不安定なスノーノイズが描写された。陽菜もまた、腕の中のデジットを愛おしむように保ちながら、不安を押し殺す眼差しでその画面を注視した。



その安息を断ち切るように、マスターが四人のテーブルへ接近してきた。


その表情に先ほどまでの柔和な影はない。


彼が手にしていたタブレットには、暗号化された無機質なログが羅列されており、その発信源がかつての彼の「過去」であることを無言で告げていた。


温かな余韻の残る店内に、かすかな不穏のノイズが、静かに混ざり込んでいた。





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