第24話 無自覚なインテルフェレンス
異世界。
昼の酷暑が残す熱気が舗装路から微かに立ち上り、揺らめく夕闇のなかへ溶けていく。
刻一刻と暮れてゆく世界の境界線で、スカラーはただ静かに佇んでいた。
視線の先にあるのは、幾年月もの時間をその身に吸い込んだ、古い木目の温もりを宿す看板。
『茶寮酒膳 箸と匙』
その慎ましい文字の響きだけを耳にすれば、現実世界の誰もが穏やかな和の趣を想起するだろう。
しかしその実態は、フランスの言語や文化が瓜二つの写し鏡のような国――レクランマリスの料理をベースにした西方料理店である。
その優美で洗練された西方の神髄を、喧騒から遠く離れた場所で静かに味わわせる稀有な店であった。
重厚な木目を刻む店の扉へ、スカラーはそっと手を伸ばす。
意図して重く作られたはずのその扉を、彼女は何の躊躇いもなく軽々と押し開いた。
一歩足を踏み入れれば、そこは外の灼熱を瞬時に忘れさせる別世界だった。
店内を優しく包むのは、どこか懐かしい琥珀色の光。
年月を重ねて深く色づいたアンティーク調の調度品が、落ち着いた影を落としている。
店奥の中心に据えられた重厚なバーカウンターには、落ちてゆく西日の残照と天井のランプが溶け合い、整然と並ぶグラスの群れに柔らかな光の粒を零していた。
そこに立つバーテンダーの姿は、まるでずっと前からこの刻が訪れるのを待っていたかのように、スカラーの来店を静かに迎えていた。
「いらっしゃいませ!……あ」
入口付近でグリーティングをしていた卜部華純の声が、途中で急に途切れる。
見間違いではないかと我が目を疑い、思わず何度も目をこすっては、訪れた客の顔を凝視した。
フロアの奥にいた男性店員も、華純の尋常でない様子に気付き、ゆっくりと振り返る。
「結さん……?」
息を吐き出すような細い呟き。
その場にいた店員の誰もが、胸を突くような捉えどころのない違和感に言葉を失い、固唾を呑んでいた。
夕暮れの温かな光に満ちていたはずの店の空気が、一瞬にしてピンと糸を張ったような緊張に包まれる。
店員の沙藤燈子は、その横顔から目を離すことができず、指一本動かせずにいた。
(違う。結さんに、あまりにも良く似ているけれど……違う)
燈子の目に映るスカラーは、世界の色彩からひとつだけ浮き出たように透き通る異様な白さを湛え、まるでこの世界から完全に隔絶されたかのような、不自然な気配を纏っていた。
生身の人間が持っているはずの、皮膚の奥から匂い立つような体温や呼吸の気配が、その肌からは一切感じられない。
それはまるで、精巧に削り出された純白の彫像が、夕闇の悪戯によって命を得て、ひっそりと歩みを進めているかのような異質さであった。
フロアにいる面々は、ほんのひととき、結に似たその存在の美しさと違和感に心を奪われていた。
だが、迫るディナーラッシュの気配と、どこかでグラスの触れ合う硬質な金属音が、かろうじて彼らを現実に繋ぎ止める。
他人の空似――
そう、自分に言い聞かせるようにして。
スカラーは周囲の波紋のような動揺など気にも留めず、ただ視線をそらすことなく、真っ直ぐにバーカウンターだけを見つめている。
華純がその胸の打つ間を整えるようにスウっと息を吸い、促されるように一歩前へ出た。
「カウンターのお席が宜しいですか? どうぞ、こちらへ」
案内されるまま、スカラーは言葉も発することなく歩を進め、音もなく椅子へと腰を下ろした。
その一連の動作には、人が生きるうえで発する生活のノイズが何ひとつ含まれていない。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こう側からノアが穏やかに、その異質な存在のすべてを受け止めるようにして言葉を紡いだ。
(ノア……という名か……)
バーテンダーの胸に輝く金色のネームプレートを確かめたスカラーは、夕闇に沈む街灯の光を映し出す窓硝子のように、どこまでも深い瞳でノアをじっと見つめている。
「何になさいますか?」
ノアは肌を刺すような沈黙を急かすこともなく、ただ静寂の湖に波紋を広げるような穏やかさで問いかけた。
「何に……とは?」
スカラーの薄い唇から漏れたのは、言葉というよりは、ただ周りの空気そのものがその形にゆらめいたかのような、実体のない儚い響きだった。
「お飲み物、でございます」
ノアは、その短く削ぎ落とされた言葉のなかに、すべてをそっと包み込むような平穏を込めた。
「……」
(この『結』という者の記憶を同期しエンコードしたはずだが、まだ上手く扱えぬか。では、最適化する)
スカラーの瞳の奥で、幾何学的な光が密やかに明滅した。
ふたりの間に、ただ濃密な時間が澱のように積もっていく。
壁に掛けられた古時計が刻むチクタクという規則正しい秒針の音だけが、この世界に残された唯一の現実であるかのように、大きな余韻を残して響いていた。
やがて、スカラーはノアの瞳を真っ直ぐに見据え、その血色のない白い唇をゆっくりと開いた。
「任せて……いいですか?」
ノアは、そのすべてを見透かすような眼差しを逃げることなく受け止め、一度だけ頷いた。
「かしこまりました」
彼が迷いのない手つきでバックバーに並ぶ美しいボトルへと手を伸ばした瞬間、店内に満ちていたかすかなザワつきが、その一角にだけ吸い込まれるようにして消えていった。
ミキシンググラスの中で、角の取れた氷が硬質で美しい音を立てて回り始める。
カララン、と静まり返った空間に響くその音は、まるで夜の底で、誰にも知られずひび割れる氷河のようだった。
ノアの手元でバースプーンが滑らかな描線を描き、時間を紡いでいく。
ステアを重ねるノアの視線は客を捕らえることもなく、ただグラスの中で静かに混ざり合う、結晶のように透明な液体だけに注がれていた。
やがて、極限まで冷やし抜かれた、脚の長い凛としたグラスへ、無色透明な液体が一筋の細い流体となって滑らかに注がれていく。
仕上げに、手元でレモンの皮が鋭く絞られた。
一瞬だけ、張り詰めた空気にふわりと広がる、瑞々しくも少し苦いオイルの香り。
それは静寂に包まれた空間を、ほんの一瞬だけ優しく融かすかのような色彩を帯びていた。
ノアは無駄のない手つきでグラスの脚を持ち、すっと滑らせるようにスカラーの目の前へと差し出す。
「『マティーニ』でございます」
澄み切った透明の海の底で、一粒の緑のオリーブが、ただじっと佇んでいる。
カクテルの王様。
スカラーはしばらくの間、グラスの表面にうっすらと浮かび上がる、白い魔法のような霜の衣を、言葉もなくただじっと見つめていた。
わずかに伸ばした指先がガラスの冷たさに触れたその場所から、白い霜が密やかに融けて、ひとしずくの透明な雫へと還っていく。
その細く白い指でいたわるようにグラスの脚を持ち上げ、ゆっくりと口に含んだ。
ジンの鋭いアルコール感と、ベルモットの複雑で芳醇な香草の薫りが、喉を微かに焦がすようにして通り過ぎていく。
スカラーは、手元の透明なグラスを見つめたまま、小さく呟いた。
「この身体には……少し、強いですね」
「いまの貴方には、これが必要かと思いまして」
ノアの返答に、スカラーの唇から、ひとすじの、しかし確かなため息がこぼれた。
それは、ずっと張り詰めていた見えない緊張の糸が、ほんの僅か緩んだような、どこか柔らかな響きを持っていた。
彼女を覆っていた不自然な静寂と、こちらの世界の境界線が、その一息でわずかに滲んでゆく。
遠くからその美しくも切ない横顔を見守っていた燈子は、ただ、目を奪われるほかなかった。
(……綺麗。まるで、古い映画のワンシーンを見ているみたい……)
スカラーはもう一度手元のグラスを見つめ、今度は少しだけ愛おしそうに、それをゆっくりと愛でるように口に運んだ。
「美味しい……これが、美味しいという感覚なのですね」
ノアの目に映る彼女は、どこまでも不思議で、どうしようもなく彼の心を惹きつけて止まない。
確率の霧の向こうへ今にも消え去ってしまいそうな、その存在の不確かな揺らぎが、かつて肉体を離れ時空を漂った自らの記憶を刺激する。
ただそこにいるだけで胸が締め付けられるほどに切ない客だった。
ふたりは、それからもしばらくの間、外の世界の喧騒から完全に切り離された琥珀色の灯の中で、静かに言葉を交わし続けた。
やがて、グラスが完全に空になった時、スカラーは緩やかに席を立った。
「また……来ます」
立ち去ろうとするスカラーの背中は、来た時とは違い、どこか透き通るような清廉さを纏い、ただ一輪の白い花のように凛としていた。
「また、お待ちしております」
ノアは厳かに頭を下げ、夜の深淵へと溶けていく扉の音を聞いていた。
✳︎
「ノアか……」
店を後にしたスカラーは、そう呟くと、夕闇から夜へと移ろう街の奥へと消えていった。




