第23話 パラレル・ラインの交点
Parallel world.
1. Noah: Day 14 After Stranding
窓から差し込む柔らかな光のなかに、微細な塵が星屑のように踊る、どこか穏やかな空気が流れていた。
ゆるやかに流れる時間を優しく繋ぎ止めているかのような、時計が刻む規則正しい針の音。
目の前で緑茶の湯気が幾重にも細く立ち上り、揺らめく空気の層へと淡く溶け込んでいく。
言葉を交わす前の、静かで濃密なその一瞬が、まだ見ぬ運命の糸をそっと引き寄せていた。
私の目の前に座っているのは、咲良理人という人物。
この町の世話役、のような人だと聞いている。
そしてその隣には、白い衣を脱ぎ捨てた外科医――私を社会の綻びのような隙間から、文字通りその命ごと手繰り寄せ、救い上げてくれた海凪なぎさ(みなぎ なぎさ)が佇んでいた。
「ドクターから、お話は大体伺っています」
咲良理人、彼の眼差しは、穏やかで、人肌の優しさを湛えている。
「ノアさん。……あなたの口からも、その胸の内にある事情を、少しだけ聞かせていただけますか?」
私は、目の前の湯呑みをじっと見つめていた。
「……まず、記憶の一部が欠損しています」
自分の声が、どこか他人事のように耳に届く。
脳というプロセッサを客観的に観察しているかのような、冷静で乾いた響き。
「自分が誰だったかは覚えている。積み上げてきた研究内容も覚えている。だが、消滅直前の出来事には、決定的な欠落があるのです」
私は自分の白く乾いた掌を見つめ、記憶の底にある奇妙な景色をなぞるように言葉を紡いだ。
「私はかつて、量子物理学の実験によって、肉体を捨てて意識のすべてをデータ化し、物質の存在しない『精神世界』へと渡りました。そこは時間の概念すら意味をなさない、情報の海のような世界でした」
私自身は、その精神世界で出会った一人の女性を助けるため、自らの全存在を鍵に変えて消滅した、とずっと思っていた。
だが、実際には今、こうして生きている。
「私の理論では、存在を燃やし尽くした私の生存確率は完全にゼロだった。完全に消滅したはずの私が、なぜか再び実体化し、人間の姿に戻ってこの世界の海岸へと漂着していた。……自分がなぜ生きているのか、なぜ肉体を取り戻しているのか、今の私には分からないのです」
自分の存在を証明する確かな質量を探るように、私は静かに言葉を続けた。
「それに、何かに観測されている感覚がある。時折、自分の思考が誰かに読まれているような感覚があるのです。科学的根拠はない。だが、気持ちが悪い」
掌を開き、そして、ゆっくりと握りしめた。
借り物の皮膚をそっとなぞるような、痛々しいまでの違和感がそこに張り付いている。
私は微かに眉を寄せ、オフィスの何もない虚空を見つめた。
「それは嫌ですね」
理人は、静かに相槌を打った。
「信じるのですか?」
「信じるというより……」
理人は少しの間、手元の湯呑みを見つめて考えた。
「あなたがそう感じるなら、そうなんでしょう」
過去に執着するつもりはない。
起きてしまった現象を、そのまま現実として受け止めようとするのは、研究者としての私の習性のようなものだった。
「この世界に、私の記録は存在しない」
「分かりました」
理人はその事実を、驚くほど淡々と受け止める。
「驚かないのですか?」
「驚いていますよ」
「……そうは見えません」
「燈子さんが初めて来た時も、もっと大変でしたから」
「燈子?」
「ええ、うちのアルバイトです」
その燈子というアルバイトも私と同じ漂流者なのか?
あるいは、なんらかの訳あり人物なのか……
理人は悪戯っぽく微笑み、それから少しだけ声を潜めて続けた。
「実はこの世界――あなたのような事情を抱えた人や、科学では説明できないことが、実際の出来事として、あるがままに受け入れられています。町の記憶が曖昧になったり、異能を持つ者がすぐ隣にいたりする。だから、ノアさん。あなたのような人がここに漂着したことも、まあ、そんな不思議なこともあるかもしれない、と私は思っています」
この男は超常現象を否定しない。
かといって、大げさにも扱わない。
「ただ、いまの段階では、そのことは、私とドクターだけが知っている。そういうことにしましょう」
「……分かりました」
理人は真っ直ぐに私の瞳を見つめた。
「元の世界へ戻りたいですか?」
少し考えてから、私は静かに首を振った。
「戻れる保証があるなら考える。だが、今は違う。私は今ここにいる」
「良かった」
「……何がです?」
「帰る場所だけを見ている人は、ここで暮らせませんから」
理人は私の横顔を静かに見つめていた。
その眼差しには、数多くの人々を受け入れてきた者ならではの、深い包容力が滲んでいる。
自分自身では自覚の薄い、どこか浮遊したような危うさを、彼は見抜いているのかもしれない。
「ノアさん、改めて。よろしくお願いします」
理人が差し出した手を、私は握り返した。
なぎさがその光景を横目で見届け、小さく、満足そうに微笑むのが見えた。
私に提供されたのは、なぎさと同じ階に位置するマンションの405号室――『The Cherry Vintage House』。
そして、その1階にある『箸と匙』という、新しい居場所の灯りだった。
2. Noah: Day 31 After Stranding
「退院……!? って、やっぱりね……お母さんの言った通りだ……」
白く塗り固められた海凪病院の受付ロビーで、亜依の掠れた声が虚しく反響した。
隣に立つレイイチは、長い影を足元に落としたまま、無言で窓口の奥を見つめている。
退院――。
この翠松町への到着が予定より一カ月も遅れた時点で、その最悪の可能性は頭をよぎっていた。
だからこそ、手分けをしてこの広い街を捜索していたのだ。
「退院されて……いま、どこにいらっしゃるかご存じありませんか?」
縋るように身を乗り出す亜依に対し、窓口の女性は困惑を隠しきれない様子で、ゆっくりと首を振った。
「申し訳ございません。退院された後のご足取りまでは、当院ではお答えいたしかねます」
「どなたか、少しでもご存じの方はいらっしゃいませんか」
「仮に把握しておりましても、患者様の個人情報を外部の方へお伝えすることはできません。……失礼ですが、秋月様とはどのようなご関係でしょうか?」
不審を隠さない受付の鋭い視線を受け止め、亜依は咄嗟に、しかしどこか苦しい口実を言葉にした。
「ノアさんの……娘さんの、お友達の娘です」
「はあ……」
曖昧すぎる返答に受付の女性は言葉を詰まらせ、不信感を募らせながら手元の端末へと視線を落とした。
「亜依、行こう」
「え?」
気まずい沈黙がその場を支配する前に、レイイチがそっと亜依の細い手首を掴んだ。
そのまま、受付の女性が声をかける隙すら与えず、出口へ向かって迷いのない足取りで歩き出す。
「ちょっと、兄さん、どうしたの?」
突然の制止に戸惑いながら着いていく亜依へ、レイイチは視線を正面に向けたまま、低く押し殺した声で呟いた。
「受付の人の感情の波線が変わった」
「え? ……心が読めるの?」
「心までは読めないよ。ただ『警戒』の思考が生まれるとき、それが不快な低音のノイズになって、僕の耳の奥を激しく揺さぶるんだ」
言葉を紡ぐレイイチの目元には、微かな歪みが刻まれていた。
「それって……感情共鳴?」
亜依は息を呑み、兄の横顔を痛々しそうに見つめた。
周囲の人々が内面に抱く感情のエネルギーが、目に見えない波長となって精神へ直接響き渡り、勝手に同調してしまう力。
それは他者の心の動きを察知する奇跡であると同時に、絶え間なく世界から心を苛まれ続ける過酷な呪いでもあった。
「便利だけど……やっぱり辛そうね。大丈夫?」
亜依が気遣う言葉を掛け終えようとした、まさにその時だった。
「そこのお二人、少々お待ちください!」
背後から、硬い靴音とともに二人の警備員が急足で迫ってくる気配がフロアに満ちた。
受付が鳴らした通報が、早くも形となって追いついてきたのだ。
ガラスの自動ドアが開かれ、初夏の陽光が眩しく降り注ぐ正面玄関のポーチへと躍り出た、その一瞬。
レイイチは再び、亜依の手を固く握り直した。
刹那――光の屈折すら置き去りにするように、真昼の太陽の下から二人の姿が、泡沫のように綺麗に消え去っていた。
3. Noah: Day 15 After Stranding
『茶寮酒膳 箸と匙』の店内には、開店前の張り詰めた静寂が満ちていた。
昼のなごりが静かに引き、本格的な夜が訪れる前の、ほんのわずかな空白。
それは、この場所が息吹きを宿す前の、厳かな凪の時間だった。
ディナー営業を控えたミーティング――「夕礼」の刻。
引き締まった空気の中、社長であり、店長である咲良理人が、全員を見渡して口を開いた。
「皆さん、お疲れ様です。今夜の営業に入る前に、今日から新しく私たちの輪に加わってくれる、大切な仲間を紹介します」
店長の斜め後ろから、私は一歩前に踏み出した。
ホールスタッフの制服は、まだ下ろしたての硬い折り目が正しく残っている。
身を包むシャツの白さはどこか浮いていて、私自身、この世界にまだ馴染みきっていないひんやりとした冷気をまとっている自覚があった。
「今日からホールを担当していただく、秋月乃亜さんです」
店長は穏やかな微笑みをたたえながら、流れるように、そしてどこか深い信頼を込めて私の経歴を皆へ伝えていく。
「ノアさんは、現場での直接のご経験はありません。ですが、かつて飲食店の立ち上げに出資され、共同経営に関わってこられた方です。いつか自ら現場に立ち、人が生み出す『温度』をご自身の肌で感じたいと願っていらしたそうで、今回、美しいご縁があってこうして私たちの店に迎えることとなりました」
並ぶスタッフたちの視線が一斉に私へと注がれる。
私は全員の瞳をまっすぐに見つめ返し深く一礼した。
「秋月乃亜です。今日からお世話になります。ずっと焦がれていたこの仕事を、37歳、かつ未経験という身でありながら経験する機会をいただき、心から感謝いたします。全力で励み、このお店にプラスのベクトルをもたらす存在になりたいと考えています」
私自身の声でありながら、その言葉の響きには、この世界の重力に馴染みきっていないような不思議な浮遊感が混ざっていた。
「いまの私は、少し特殊な位相にあります。住む場所も、生業も、つい最近まで定まっておりませんでした。それゆえ、この場所で働くということは、私にとって単なる仕事以上の意味を持っています。まずは皆さんの動線と呼吸を精緻に観測し、一刻も早く、この空間の密度に私自身の波長を調律したいと思っております」
飲食店の夕礼には不釣り合いな用語だと分かりつつも、それが私の思考回路そのものだった。
「――『本当に大切なものは、目に見えない』。私はそう信じています。皆さんへの敬意、そしてお客様へのおもてなしの心を核に据え、未知の領域ではありますが、自らの限界を定めずに挑戦いたします。どうぞ、よろしくお願いいたします」
パラパラと、そしてやがて満ちていく拍手を聴きながら、私はスタッフたちの瞳の奧に広がる波紋を静かに観測していた。
温かい歓迎の拍手が収まると、私の指導役に任命された沙藤燈子さんが、歩み寄ってきた。
「ノアさん、今日からよろしくお願いします! 私、トレーナーなんて初めてだからちょっと緊張しちゃうんですけど……一緒に頑張りましょうね」
明るい声で、けれどどこかはにかむように微笑む彼女を見つめる。
「あなたが燈子さんですか…」
「えっ?私をご存知なんですか?」
「店長から、あなたの面接の時のエピソードを少し…」
「あ、えへへへぇ、緊張していろいろやらかしちゃったあの面接ですかぁ…」
「いえ、店長が褒めていましたよ」
本当は「褒め」とは微妙にニュアンスは違ったのだが。
「燈子さん、どうぞよろしくお願いします。あなたの動きを正確にトレースできるよう、最善を尽くします。何か不手際があれば、即座に指摘してください」
私は姿勢を正し、頭を下げる。
「ふふ、トレースだなんてそんなに硬くならなくて大丈夫ですよ。まずはメニューの名前と、テーブルの番号を覚えるところからです。……あ、でも、ノアさん」
燈子は少しだけ声を潜め、いたずらっぽく目を細めて私を見上げた。
「さっきノアさん、夕礼で『本当に大切なものは、目に見えない』って言っていましたよね。私、あの言葉、すごく素敵だなって思いました」
私は一瞬、不思議そうに瞬きをした。
「私の拙い挨拶を記憶してくれたのですか」
「はい。不思議なお客さんもたくさん来るし、目に見えない『空気』とか『居心地の良さ』をすごく大切にしている場所なんです。だから、ノアさんがそう思ってここにきてくれたなら、きっと大丈夫。メニューなんて、やっていくうちに絶対に覚えられますから!」
彼女の瞳の奥で揺れる、不純物のない純粋な光。
その暖かさに、私は思考のギアが少し緩むのを感じた。
「……そうですか。未知の領域ではありますが、あなたの言葉を信頼し、限界を決めずに追従します」
「はい! じゃあ、まずはあっちの棚の確認からいきましょう!」
無邪気に喜ぶ彼女の背中を見送りながら、店内の照明が夜の営業にふさわしい落ち着いたトーンへと落ちていくのを見届ける。
『茶寮酒膳 箸と匙』の重い扉が、静かに開け放たれた。
世界の記述の向こう側――因果の果てからこの翠松町へと漂着した私は今、トマトやスパイス、ワインの香りが熱量を持って対流する、西方料理の店に立っている。
厨房という特異点から料理が運ばれてくるその空間は、時空を結ぶワームホールそのものだ。
「目に見えない空気」――飲食店という空間を満たす、優しく光を伝えるエーテルのようなもの。その領域へ、三十七歳にして初めて足を踏み入れた。




