第12話 アイデンティティ・レゾナンス
リビングの引き戸が激しく開き、連絡を受けて急行したデジット、レイイチ、外で待機していた律が室内に飛び込んできた。
「零姉さん、無事か!?」
律が声を荒げる中、レイイチが黒い戦闘服の女を見るなり一歩前に出た。
「あ……」
「レイイチ、違う。待て、別の奴だ。……こいつは、あの時のあれじゃない」
デジットがすかさずレイイチの肩を強い力で掴んで制する。
数日前のあの地下室を破壊せんばかりの覇気を放っていた影と似てはいるが明らかに違う。
22歳の亜依は、レイイチの顔を見て、張り詰めていた仮面を剥ぎ取るようにふっと目元を優しく緩めた。
「兄さん……。相変わらず、その格好なのね。ふふ」
「え……? 兄さん……? …………
あ、なるほど…そういうこと。…え? …マジで?」
SF小説のプロットを紡ぐ律は、誰よりも察しが良い。
というよりも察しが良すぎる。
この数週間に起きた常軌を逸した出来事を振り返れば、目の前で起きている状況――未来から娘がやってきたなど、いまさら何の不思議もなかった。
頭ではそう理解し状況を受け入れつつも、やはり感情の整理が追いつかない。
律は混乱を隠せないまま、落ち着かない様子で眼鏡のフレームを何度も何度も押し上げていた。
「デジット、レイイチ、律くん。もう大丈夫よ。この子は……私たちの味方。ううん、私の娘だから」
零はそう言うと、リビングの奥へ歩みを進め、パニックルームの重い扉を静かに開けた。
「亜依、もう出てきて大丈夫よ。おいで」
零の腕に愛おしそうに抱かれ、リビングの柔らかな朝の光の中へと足を踏み入れたのは、幼い亜依だった。
零に抱っこされたまま、2歳の亜依は不思議そうに首を傾げ、ソファに座る黒いスーツの女性をじっと見つめた。
「亜依。こんにちは。……私は、亜依よ」
22歳の亜依が、ゆっくり2歳の小さな自分へと目線を合わせる。
慈愛と、言葉にできないほどの切なさが、大人の亜依の瞳から溢れ出していた。
すると、まだ言葉もおぼつかないはずの2歳の亜依が、大人の自分をじっと見つめ返したまま、その大きな瞳をわななかせ、ぽろり、ぽろりと、一筋の涙を頬にこぼしたのだ。
「あ、ぅ……」
小さな小さな手が、何かを求めるように、22歳の亜依の方へと伸ばされる。
「ちょっと、待ってくれ!」
その光景を見ていた律が、恐怖に近い戦慄を覚えて顔をこわばらせ、声を上げる。
「未来から全く同じ人間がやってきて、過去の自分自身に直接接触するなんて……時空の許容量を超えて、大爆発とか、エネルギーの暴発を引き起こす原因になるんじゃないのか!? 二人を近づけちゃダメだ!」
「あなたのSF小説の中ではそうかも知れないけれど」
零は涙を流す我が子を強く抱き締め、目の前の22歳の娘から目を離さないまま、どこか確信を持った静かな声で返した。
「過去に来た時点で、ここは元の未来とは違う別の宇宙(世界線)になっているか……あるいは、目の前にいるのは過去の自分ではなく、自分と全く同じ遺伝子を持った『別の世界の他人』だから、触れても物質的なエラーは起きないってパターンかもしれないわよ?」
「――どれも違う」
デジットが、静かに二人の亜依を見つめながら遮った。
「大宇宙の法は、そんなに雑でも、そんなに優しくもない。宇宙のOSは、この二人を別々の存在だとは扱わん。だからこそ……物理的に触れ合わずとも、ただ視線を交わすだけで、彼女が未来で培った揺るぎない自信と、その奥に秘めた世界の果てのような深い孤独が、この子の心に津波のように流れ込んでいくのだ」
デジットの重々しい言葉に、リビングの空気が完全に静まり返る。
「『アイデンティティ・レゾナンス(同一性共鳴)』。未来の自分が抱える『深い寂しさ』が過去の自分に伝わり、過去の自分が抱く『現在の不安』が未来の自分へと伝わる。互いの感情がダイレクトに同期し、胸が締め付けられるような感覚を今、この二人は共有している。……なぜならそれは、この2歳の亜依がこれから歩む道の中で、いつか必ず出逢うことになる、自分自身の痛み様なのだからな……」
「ちょっと! 亜依はまだ2歳よ! そんな過酷なもの、この子の心に流し込まないで!」
零がたまらずデジットにくってかかる。
「――大丈夫。もう、泣かなくていいよ、亜依」
そっと二人の亜依の間に割って入ったのは、レイイチだった。
彼は見た目こそ大人の青年であり、知識も高位のそれを持ってはいるが、本質は零の帰還から生まれたばかりの、まだ「3歳」の優しき器。
レイイチは、大きな亜依と小さな亜依を同時に包み込むようにそっと両手を広げた。
すると、彼の身体から、自らの温質で澄み切った、まるで陽だまりのような『光の粒子』が溢れ出し、二人を優しく包み込んだ。
「僕がここにいるからね。未来でも、過去でも、亜依が悲しいときは、僕がいつだって隣にいるから」
レイイチの、どこか幼さを残した、けれどどこまでも真っ直ぐで優しい声。
その温かな光に触れた瞬間、律も零も、そして二人の亜依も、言葉では説明できない絶対的な安堵感に包まれた。
22歳の亜依の胸を締め付けていた頑なな呪縛が、そして2歳の亜依の不安が、その光のなかで洗われるようにすっと引いていく。
2歳の亜依は涙を拭い、レイイチのスーツの裾をぎゅっと掴んで、安心したように「にぃに……」と小さく笑った。
その光景に、リビングの全員が、張り詰めていた心の奥底から救われるような安堵を覚えていた。




