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第九話  時間だけが緩やかに遡ったような

翌朝、フェリーで初島から戻った美知子と亮は、熱海城を背に、網代に向けて海沿いの道へと歩き出していた。


しばらく、言葉はなかった。

潮の匂いを含んだ風だけが、二人の間をすり抜けていく。

左手に広がる水平線は何処までも青く、右手に迫る山肌から、港湾へ沿うように連なる街並みは、一歩ごとにゆっくりと遠ざかっていく。


柔らかな陽射しを浴びた海は、淡くきらめき、寄せては返す波の音だけが、一定のリズムで続いている。


「……やっぱり、歩くと景色が違うな」

亮が、独り言のように言った。


「そうね…… 車じゃ、通り過ぎちゃう景色よね」

美知子は、舗装された道の先、岬がゆるやかに伸びていく方向を見つめていた。


「そうそう、亮ちゃん二日酔いはどうなの? あんなに楽しみにしてたのに、朝食は殆ど食べて無かったじゃない?」

冴えない亮を横目で見ながら、笑いを噛み殺す美知子。


「うん、昨夜は調子に乗り過ぎたかなぁ……」

ボソっと呟いたと思えば……

「でも、しじみの味噌汁だけは、お代わりしたよ!」

何故か、そこは自慢げだった。


「今頃になってお腹空いてきたなぁ、コンビニあったらちょっと寄ってくれる?」

亮の気恥ずかしそうにしてる仕草が、無性に可笑しく、美知子は、笑いを堪えきずに首を縦に振るのがやっとだった。


さっきまでの笑いが、潮風に溶けていくように、ゆっくりと静まっていく。

亮は肩越しに風を感じ、前を向いた。

美知子も、自然とその歩幅に合わせるように後に付いて歩いた。


途中で僅かな休憩を挟みながら……

網代へ続く道を並んで歩く二人は、それぞれの想いを胸に抱き、歩くこの時間が、不思議なほど穏やかで、言葉にしなくても伝わるものが、確かに、そこにあった


背中越しに感じる潮風が心地よく、美知子は思わず小さく息をついた。

「ねぇ、もうすぐ十一月だっていうのに、陽射しが暖かくて、すごく気持ちいいと思わない?」


亮も、すかさず笑うように言った。

「今回の熱海はさ、昨日の初島もそうだけど、本当にいい天気に恵まれたよなぁ」


「……ほら、海岸が見えてきた。もうすぐ網代だよ」

亮は足を止め、すぐ後ろを歩く美知子を振り返った。


「あっ、……ほんとだ!」

視線の先に広がる海岸線を見て、美知子の声が弾む。

「まだ、一時半過ぎたところよ、思ってたより早く着きそうね!」

その声には、疲れよりも軽やかな期待が滲んでいた。


「ここまでくれば、大将の店もうすぐだ」

亮がそう言って、少し足取りを早めた。

それにつられるように、美知子も足を進めた。

暖簾をくぐった時の、あの匂いがふっと蘇る。


元々、漁師だった大将は、今でも海に出て、朝獲れた魚を自ら(さば)き、不揃いなものは焼いたり揚げたり……

当時学生だった写真部の亮たちに、新鮮で旨い魚を、安く、腹いっぱいに食べさせてくれた。

それ以来、亮たちは熱海に来るたび、必ず網代まで足を延ばし、大将の店に立ち寄るようになった。

美知子にとっても、熱海で亮たちと初めて出会ったあのとき、一緒に連れてきてもらった思い出の店でもあった。



「よう! いらっしゃい!」

威勢のいいよく通る声が、小気味よい包丁の音とともに店内に響いた。


「大将! 久しぶりー」

「こんにちは! お久し振りです」

美知子は、亮の後ろから顔をそっと覗かせた。


「おう、二人一緒かい!」

そう言って交わした大将との再会の言葉だった。


懐かしい味をゆっくりと噛みしめながら、

二人は、器用に魚を捌く大将の手際の良さを、しみじみと眺めている。


大将はニカッと白い歯を見せ、手捌きを緩めずに言った。

「亮、久しぶりだな。前に顔出したのいつだった?」


「すみません、仕事に追われっぱなしで…一カ月前まで北海道にいて、やっと帰ってきたところですよ」

そう言いながら、亮は懐かしそうに店内を見渡した。


社会人になってからは、それぞれの人生に忙しく、皆で集まることもなくなったが、それでも亮だけは、折に触れてこの店を訪れていた。

ときには一人で。

ときには澤田を誘って。

店の引き戸を開けるたび、学生だった頃の自分に戻る気がした。

短い結婚生活に、心も体もすり減らしていた頃も、亮はふらりとここに来た。


大将は何も聞かず、

「久しぶりだな」

そう言って、いつもの席に、腰をおろす場所を残してくれていた。


言葉にしなくても、ここにいるだけで楽になる。この店は、亮にとって帰る場所のような存在だった。


美知子がこの店を初めて訪れたのは、由里子と光里の三人で出かけた熱海旅行で、亮と澤田に初めて会った時に、その流れで連れて来てもらったのが、網代にある、この大将の店である。


暖簾をくぐった瞬間、漁師でもある大将の姿に、亡き父と重なるものを覚えた。

それからというもの、亮と熱海を歩く時は二人の足は自然と網代へ向かっていた。


炭の残り香と、潮の匂いが混じった店内に、大将の包丁がまな板を打つ乾いた音、変わらない手つきに、変わらない味。

器に盛られた新鮮な魚は、どれも艶やかで、時間だけが緩やかに遡ったような気がした。


ふと、亮がトイレへ立ち、席を離れた。


美知子は、黙ってカウンターの向こうに目を向ける。

生簀(いけす)から魚を網ですくい上げる大将の腕。

まな板の上で、勢いよく跳ねる魚。

迷いのない手さばきで、あっという間に捌かれ、大皿の上に、彩りよく盛りつけられていく。


その一連の動きがあまりにも鮮やかで、美知子は、かつて帰りの電車で由里子が大将のエネルギッシュな仕事ぶりを絶賛していた姿を思い出す。


記憶の中の親友に同意するように、美知子の口から、ふと吐息のような言葉がこぼれ落ちた。

「……本当。いつ見ても、惚れ惚れしちゃう」


その一言に、大将は照れたように鼻の下をこすり

「そんなふうに言われたら、照れるなぁ」 と、口元を緩めた。


ちょうどそのとき、トイレから戻ってきた亮に、大将が声をかける。

「亮だって、魚を捌く時の手際のよさはたいしたもんだよな」


「え? 何の話?」

亮は、きょとんとした顔で笑う。


「いやさ、俺の腕が良いってみっちゃんが褒めるもんだからさ、……あの時のことが思い出されてきてな」


大将は包丁を置き、少し懐かしそうに続けた。

「だいぶ前になるけどなぁー忙しい日に丁場に入ってもらったことあっただろ。あの時の手つき、今でも覚えてるよ」


亮は、少し照れたように肩をすくめる。

「ああ…… そんなこともありましたね」


「筋が良いって、あの時も言ったよな! いやー就職する前に分かってたら、うちの店にスカウトしてたところだよ」

冗談めかした大将の言葉に、亮は苦笑いを浮かべた。


その様子を見ていた美知子が、くすっと笑い、

「へぇ〜、亮ちゃん、筋がいいんだって」

そう言って、軽く亮の腕をぽんと叩く。


「この腕が、ねぇ」

亮は、少しだけ困ったように笑った。


言葉は多くなくても、二人は短い熱海の旅の余韻を、しんみりと味わっていた。


湯気の向こうで、大将はすでに次の仕込みに取り掛かっている。

カウンターに流れる穏やかな時間が、少しずつ日常へと溶けていく。


「大将、また来るよ」

名残を含んだ亮の声に、美知子も小さく頷く。


傾きはじめた陽射しの中、帰りの電車の時刻を確かめるように、二人は店を後にした。

さっきまでの賑やかさが嘘のように、日が傾いた通りには、十一月らしい、少しひんやりとした風が肌に触れた。


店を出て歩き始めた途端、美知子は思わず足を緩め、亮にそっと囁いた。

「ねぇ、大将って、何歳(いくつ)になるんだっけ? 最初に会った頃と全然変わらないわよね」


美知子のその一言に、亮は一瞬だけ視線を泳がせ呟く。

「あー、……何歳なんだろうなぁ」


照れたように笑ってから、亮は続けた。

「俺たちが学生の頃、よく聞かされてたよな……」


亮は懐かしむように、ふっと息をつく。

「店を持つのが、若い頃からの夢だったらしくてさ。今の仕事も、趣味の延長みたいなもんだって。だからどんなに大変でも、苦にならないらしい」


少し間を置いて、ぽつりと続けた。

「……そう言える生き方、ちょっと羨ましいよ」


そう話す亮の声には、年齢を超えて変わらず在り続ける大将への、ひたむきな敬意が滲んでいた。

美知子は、その横顔を感心したように見つめていた。



東京に着く頃には、街はすっかり夜の色に沈んでいた。

改札を出て、ほんの少しだけ立ち止まり、

二人は、別れを惜しむように、それぞれの、いつもの日常生活へと戻って行くのだった。


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